慶長三年八月十八日、太閤様(豊臣秀吉)は他界された。
その前に示された御遺言では、
徳川家康、毛利輝元が一年交代で大阪に詰めて、仕置をするように御頼みなされ、
その他の諸大名も、一年交代で大阪に詰めるようにとされ、秀頼に無沙汰ないよう、
それぞれに起請文を書かせた。
これにより諸大名は残らず起請文をしたが、この時家康公は、
「上杉景勝は来年大阪に詰める予定であったのが、
越後から奥州への国替えが有ったため三年間の在京が御免されている。
しかしそのため諸大名の中で景勝一人誓紙を出していない。
景勝も上洛して誓紙を出すべきである。」
そう景勝に対し伝えたが、景勝からは、
『三年間在京御免となっており、上洛はしない。』
との返事であった。
家康公は再三景勝に対し仰せ遣わしたが、とにかく心得る事無く、
荒々しい返事を送り返した。
このため家康公はご立腹され、
「では私が迎えに参ろう。」
と、江戸へ御下りになり、諸大名も「景勝謀反」と、追々関東へ下った。
家康公の御先手をする者達は何れも宇都宮まで出陣していた所、
上方では石田治部少輔が謀反を企てていた。
石田が、
『家康公は私の仕置を成し不届きであり、
毛利殿が御上がりになって大坂の御番を成されるように。』
と安国寺恵瓊より伝えさせ、毛利輝元は早速大阪に上った。
この事が宇都宮に聞こえると、家康公は諸大名に、
「そなたたちは景勝を退治した上で上方に打ち向かおうと申されているが、
各々の妻子は大阪に在る。
であれば構わないので、ここから早々に上方に上がり候へ。」
そう仰せに成られた時、福島正則が申し上げた。
「私に治部少輔と一味する筋目はありません。
また大坂の妻子は治部少輔に渡した人質ではありません。
たとえ串刺しにされようとも、武士の躊躇う理由にはならず、捨て置きます。」
そう言うと、跡継ぎである刑部(福島正之)をその場に召し、
「これを家康公への人質に進ぜます。これより私は、上方への先手を仕ります。
上方に於いての軍勢の兵糧については、
私が故太閤様より十万石を代官所に預かっており、
また七年分の米が尾張に納め置いてありますので、
都合三十万石ほど御用に立てることが出来ます。
景勝については先ずは捨て置かれ、上方に御出馬成されるべきと考えます。」
そのように申し上げたのである。このように福島正則様が様々に申したため、
細川越中守(忠興)殿、池田三左衛門(輝政)殿、浅野紀伊守(幸長)殿、
田中筑後守(吉政)殿、堀尾信濃守(忠氏)殿、
その他諸大名が家康公にお味方仕ると申し上げた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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