加藤家、使者を入札で☆ | げむおた街道をゆく

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慶長16年(1611)3月、

加藤清正は、徳川家康と豊臣秀頼の二条城会談を成功させた。
だが同年5月、熊本に帰る船中で体調を崩し、それから病状は日々悪化。

熊本に着城して2,3日過ぎた頃には、舌が不自由になり、

物を言うことさえ出来なくなった。

医師たちは加藤家の重臣たちに、

「脈も宜しくなく、回復されるのは難しいと思います。」

と伝える。
 

これにより加藤家一門、並びに城代を勤める重臣たちが緊急に集まり話し合いをした。

 

そして、
『清正が本復されるということはもはや、十に一つと言うのも難しいほどの状況である。
未だ生きておられるうちに、駿河まで使者を遣わして、清正の言葉として、

「私の病状は次第に重くなり、今回ばかりは助からないものと考えています。

私が相果てた場合、
我が嫡男である虎藤(加藤忠広)は、未だ若年(当時10歳)でありますれば、

どうか宜しき様にお頼み申し上げます。」

これを本多上野介(正純)殿まで申し遣わすべきだ。』

一同そうするのが良いと皆賛成し、これは決まった。
 

ところがである。

一体誰を使者として遣わすべきか、という所でこの話はいきなり行き詰まった。
皆このように思い、自分が行くと言い出すものが居なかったのだ。

『もし殿が回復なされた場合、「自分に勝手に、誰の指図でこの者を遣わしたのだ!?」

と尋ねられたら、一体どうすればいいのか?』

これには理由がある。清正は常々、家の運営を任せる家老というものを置かなかった。
自分に近い一門衆にももっぱら支城を任せており、

全ての仕置は清正が自身で言いつけていたのだ。
加藤家では、清正の命令によらずに何かをするという事が、ありえなかったのである。

一門・重臣の者たち困り果て、ついに入札(投票)によって使者を決めよう、

と言うことになった。
そして入札の結果、飯田覚兵衛、和田備中の両名に、その場の全ての票が集まった。
そこで飯田覚兵衛には駿府への使いを、和田備中には、

当時清正と同じく重病に陥っていた紀州の浅野幸長の元への見舞いに遣わせる、

と決まった。(この程度のことすら清正の命令なしには決められなかったのである)

しかし和田備中はこれに、
「皆様の仰せに背くわけではありませんが、私は長いあいだ江戸詰めをしていて、

それから紀州に使いに行き、ようやく熊本に帰ったばかりの所です。

その上今度は大事の御使でありますから、皆様方どうかこの事は御免あるように。」

達てその役を辞そうとした。

 

だが一門の者たちは、
「皆が入札によって、そなたと角兵衛を遣わせると決めたのだ。

この上はもし殿が御本復されたとしても、
その是非を仰せになるような事はない!

一刻も早く支度をして、出発するのだ!

其方の帰ってくるのを首を長くして待っている。」

こうして飯田・和田の両名は支度をして5月18日卯の刻(午前5~7時)、

清正の病床に伺候して枕元近くに寄り、
今回の使者の件を申し上げる。

これに清正は一言も発すること無く、目を少しだけ開き、

ただ頷きながら涙ぐんでいた。

これを見て両名も、今回の使いが清正との、

長き別れの暇乞いとなると察し涙をぬぐい、
その場から使いに出発した。

加藤家、使者を入札で決める。というお話。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

こちらもよろしく

→ 蔚山城の戦い、加藤清正

 

 

 

ごきげんよう!