慶長16年(1611)、豊臣秀頼が上京し、二条城にて徳川家康に対面した。
その帰路のこと。
加藤清正は、屋敷の前の川に船を浮かべて、そこで秀頼一行に食事のもてなしをした。
この時、清正は屋敷の前の橋(肥後殿橋)から川下まで三町(約330メートル)ほど、
川の左右を竹にて虎落(もがり)を結び金屏風を隙間なく置いて、
外から船中を見られないようにした。
その上で、秀頼のお供の衆のうち下々にまで残れず馳走をした。
そのころ都に梅春という料理人があった。
清正は、この馳走のため彼を呼び寄せ料理を作らせたのだが、
秀頼のお供下々までに出す料理の献立の中に、
「蒲鉾」と書かれているのを人々見て、
「秀頼公のお供は大人数である。その人数に行き渡るほど魚の身をすりつぶすのも、
また板につけて炙ることも、短時間で行うのは難しいのではないか?」
と懸念した。
が、梅春は、魚を取り寄せると大勢で一斉にさばき、
骨を取ると大きな臼を2つ3つ並べ、
杵でこれを突けば即座にすり身となった。
これを板に付け、一方庭の中を長く掘り、
この中で大量の炭火を炊いて左右に畳を並べ蒲鉾を段々に挿して炙った。
これにより蒲鉾は少しも滞り無く秀頼一行に出された。
これを見た人々、
「扨も扨も良き才覚仕りたり。」
と感心し、その頃の大阪伏見での話題となったそうだ。
今ではなんてことのない話であろうが、
慶長年中の頃まではこう言ったことも珍しかったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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