出雲阿国☆ | げむおた街道をゆく

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慶長14年(1604)中秋の頃のこと。

海路で肥後へ帰国の途にあった加藤清正は、

摂津国兵庫の浦(今の神戸あたり)に船がかかったとき、

美しい真円の月が海上に浮かび、また波風もとても静かであったので、

鳳金丸という安宅船の2階に登り、夜すがら月見をした。

 

この時、近習の者たち2名ほどを側近くに召しての夜話のおり、このような事を言った。

「去る春の頃のことだ。奥州の政宗が團介という遊女を自国に下し、

歌舞伎を興行したことが、家康公のご機嫌を非常に良くした、

と言うことをほのかに伝え聞いた。

その理由は石田治部少輔らの謀反を難なく退治されて、

今は天下をその掌中にされている事であれば、
政宗のような国主が率先して、

もはや太刀も刀もいらぬ太平の世だと思い歌舞遊興のみにて月日を過ごせば、
もはや心配することは何も無いと思われたからだ、ということだ。

今、西国に置いてこの清正などは秀吉公のお取立てと言われ、

そのうえ秀頼公が大阪に在城されているので、
世間の者も疑わしく思い、家康公も自然と心許なく思われることもあるだろう。

さりながらわしは、家康公の御厚恩を忘れることは出来ない。

このように肥後一国の主としていただき、その上、
特に常陸介殿(家康の十男・徳川頼宣)を我が聟に仰せ付けられたこと、

それらによって当家の御恩は深く、
いささかも二心無き事であれば、いよいよ家康公の御心安く思し召すように、

政宗のように帯紐を解いて(警戒をしない、気を許すの意)、

老身を慰め遊び人となって、世間の評判にも、

『清正は年寄りになり、また太平の世になったので、武の道を忘れて年月を送っている。』

と聞かれれば、もはや気遣いすべき人物では毛頭無いと考えられるであろう。

そのようにするのが最も良き分別であると思うが、どうか?」

これを聞いた者たちは皆、御尤と感じ入ったという。

そうして、その頃、八幡の國(出雲阿国)という者を熊本まで下し、

城下の塩谷町三丁目の武者溜まりにて勧進能を行い、

その能の後で歌舞伎を行わせた。

この時、家臣の侍たちは銀子1枚を出して、桟敷に置いて見物をし、

地下町人たちは八木(米のこと)を見物料として出し、
鼠戸の口より入って芝居(舞台と貴人の席との間の芝生に設置された庶民の見物席)にて、

これを見た。

歌舞伎とはこの國が始めたものであり、

その当時西国の者たちは聞いたこともなかったため、

その珍しさに集まった貴賎上下の老若男女、鼠戸の前に市をなす有様で、

みな押し合いながら見物したそうである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 蔚山城の戦い、加藤清正

 

 

 

ごきげんよう!