徳川家康が、上杉景勝を討つため関東への下向が決定すると、
加藤主計頭(清正)は、山岡道阿弥を以って家康を諌めた。
「今度の会津発向は、お止めなされるべきです。
内大臣の重職にあって遠国の敵を自らご征伐なされるというのは、
あまりに軽々しい事です。
かつ、家康公はご老体であり、奥州まで遠征し辛苦されるというのも然るべからぬ事です。
それにもし又、五奉行共が景勝に内通して、関東に下向されたあとで叛逆を起こし攻め下る、
などという事態も考えられます。
そうなっては、前後の敵をたやすくは退治し難く成ります。
景勝に対して、私やその他の諸将を討ち手に仰せ付けられ、
その上にまだ心もとなく思われるのであれば、
かの隣国の大名、伊達陸奥守政宗、最上出羽守義光、堀久太郎秀治らを指し添えられれば、
たやすく誅伐出来るでしょう。」
しかし、家康はこれに同意しなかった。
「貴殿は武勇天下に隠れなき人であり、その上私の縁者でもあるので、
本来なら伏見に置いて帝都を守護させたいのだが、
もし世情に不慮の乱が起きれば、九州には黒田如水より他に味方は居ない。
しかし如水は隠居の身であるから、彼の軍勢は定めて小勢であるだろう。
貴殿は急ぎ帰国し、上方にもし兵乱が有れば、
如水と申し合わせ九州を治めていただきたい。」
これに清正は、自分も会津征伐の先手を仕りたいと再三申し上げたが、
家康が許容しなかったため、秀頼に御暇を申し上げて肥後へと帰国したという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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