関ヶ原の乱の時、加藤清正の北の方(清浄院)も大坂にいたのだが、
石田三成が人質を取ろうとしているという話を聞いたため、
清正から付けられていた竹田家正と大木兼能は謀を廻らし、
轉法口にいた清正の舟奉行・梶原景俊に梔子の煎汁を飲ませて、
4,5夜眠らせなかった。
そうして疲れ衰えた助兵衛が大病人のようになると、
彼を駕籠に乗せて綿帽子(防寒具)を被せ、前後に衾(寝具)を重ねた。
そして、門番の前で駕籠の戸を開き、断って屋敷に行くことを度々行った。
すると、門番は後には見慣れて、いっこうに咎めなくなった。
一方で、川口で百足船を晩ごとに漕ぎ比べさせた。
これも番船は見慣れて後には、
「どれは速い、どれは遅い。」
などと言って、守りを怠っていた。
そんなところへ清正から、
「私には石田に与しなければならない用件はない。なんとしても、
北の方を敵に渡さずに逃げ落ちさせるのだぞ。」
と、告げて来た。
それは大木の計画していたことであった。
それから、北の方にこの事を告げて、衾の下に彼女を押し隠し、
その上に梶原がもたれ掛かって、
いつものように駕籠の戸を開いて門番の前を通った。
大木も後から供をして、
「もし見咎められたならば、北の方を刺し殺して切り死にしよう。」
と思っていたが、事故も無かった。
そして轉法口に行き、やがて北の方を百足船に乗せて漕ぎ出した。
番船の前をさっと行き過ぎて2,3町にもなると、
「あれはどういうことだ!」
と騒ぎひしめいたが、その間に鳥の飛ぶが如く、1里余りも漕ぎ延びた。
番船たちは、「謀られたぞ!」と言って、碇を上げて追い付こうとしたが、
その間に船は行き過ぎて、
ついには肥後へと下り着いたのであった。
大木と竹田は大坂に居残ってこの事を漏れ聞き、
「討手が来たならば思うままに戦おう!」
と、待ち受けたが、敵方は関ヶ原の戦いで敗れたために、思いもよらず難を逃れた。
大木はもとは佐々成政に仕えて、後に清正に仕えた。
才略と篤実を兼ね備えた者だったので、
清正の寵愛は厚く、今回のことにより、
また2千石の禄を増し与えられたということである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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