文禄元年(1592年)からおこった、文禄・慶長の役で清正は朝鮮へ出兵した。
文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置き、
一番隊の小西行長とは首都漢城の攻略を競い、後に南大門から漢城に入城。
漢城攻略後は、小西行長の一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上を続け、
臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破るなど、清正の勇名は朝鮮に轟いた。
その後に行われた海汀倉の戦いでの出来事。
韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定した時の事、
朝鮮王朝の二王子”臨海君”・”順和君”を生捕りにし、数十名の家臣を捕虜にした。
清正の勇名ぶりは二王子の耳にも入っており、二王子はじめ捕虜の者たちは覚悟した。
二王子と捕虜の扱いを見た、清正は家臣に激怒。
清正「馬鹿者!!」
「朝鮮王朝の王子であろう方々をこのように縄をかけて、
よいものではない!!今すぐに縄目を解くのだ!!」
すぐに縄を解かれた二王子と捕虜の者たち。
ぽかーんとしている二王子に清正が語りかけた。
清正「臨海君・順和君、何か不都合あれば遠慮なく申し付け下さい。
この清正、決して皆様をぞんざいに扱うような事は致しませぬ。
もし、狼藉働く者あれば、清正が斬って捨てまする。」
清正は捕虜とした二王子以下の捕虜達を丁重に扱ったという。
特に二王子に関しては常に敬愛を含んだものだったと言う。
後に清正は二王子を返還する。
この時、石田三成等が二王子を朝鮮との交渉材料に使用とした為、
清正は先手を打ち独断で捕虜を返還したようである。
この行いが引き金となり三成との対立、秀吉から蟄居処分を、
言い渡されたようである。
二王子の釈放する場所まで清正は警護をしている。
後に釈放された二王子自身が、
護送中の清正の博愛に満ちていた態度に、
感謝を述べた書状を清正宛で贈ったと言われている。
さらに二王子は画僧に清正の肖像を描かせ、
廟堂に神として祀られたとされる。
加藤清正は文禄・慶長の役で寺院や文化財等を徹底的に破壊した為、
今でも韓国など朝鮮半島では評判はあまり良くない。
「鬼将軍(清正)が来るぞと言えば泣く子も黙った。」
と言われるほど武略は恐れられた。
しかし、部下の略奪や焼き討ちを厳しく禁じ、
捕虜なども丁重に扱ったなどの記述もある。
どこかで清正の所業と他の人間の所業が入れ替わり、
歪曲した可能性もあるかもしれません。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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