蔚山城の戦い、その後☆ | げむおた街道をゆく

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慶長3年(1598)1月4日、

朝鮮の役・蔚山城の戦いで、加藤清正などの日本軍は、

激戦の末、明軍30万を撃退した。

明軍30万騎のうち、生き残って帰国できたものは10万に足らなかったと云う。

さて、その時期は雪深く、取り残された負傷者や死者の確認も出来なかったため、

卯月(4月)まで放置された。
ようやく気温も上がり氷も融けると、大地には異国人、日本人、和漢の馬の死骸が、

別れること無くうち重なり、7里(約28キロ)に渡って人馬の山が築かれていた。

この状況に諸将は評議して、

『死体を全て海岸まで運び海に捨て、資材の通る道を開け城の改修をすべきだ。
いつ明軍が攻めかかってくるかわからない、城の改修は急がなければならない。』

と決まった。

 

そして諸大名に割り当て、人馬の死骸を、百石につき4人づつ引き捨てさせた。
7,8里の間にびっしりとうち重なった死体であり、

このような凄まじい戦は異国にも我が朝にも聞いたこともないと、人々は言い合った。
憐れとも無残とも、世の常の言葉では言い表すことの難しい光景であった。

異国の者の死骸は、尽く結った髪を解いて、これを綱に結んで引いた。

これらの死骸を海に引き落としたのだが、

海岸では諸々の魚たちが、

その死体のおびただしい血に窒息して死に、水のほとりに真っ赤になって充満した。
 

飲水すら薄紅の色をし、これで煮炊きした食事は腐ったような味がし、

水夫病という病気を多くの者達が患った。

どれほど多くの人が死んだかといえば、

蔚山の西南に七つ(午後3時頃)時分より夜の子の刻(午前0時頃)までは、

日本に例えると比叡山ほどの、巨大な炎が燃え上がっては消え、消えては燃え上がり、
その光で夜になっても近辺の景色が見えた。
 

人々はこれを見て、
「これは今度の死者たちの悲しみ、嘆きが炎として固まって、

あのように成ったのであろう。
何と無残なことだろうか。どうにかしてあれを成仏させなければ。」

と話し合い、安国寺恵瓊和尚が施餓鬼法要を行った。
この後、その炎はだんだんに薄れていき、やがて成仏したかのように治まった。
これも不思議なことである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 蔚山城の戦い、加藤清正

 

 

 

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