文禄元年(1592)、正月朔日の事だという。
この日、諸大名は関白秀次のいる聚楽に出仕、正月年賀の拝謁をし、
それを終えてから、太閤秀吉の御座所へと出仕した。
ところがこの日、秀吉は大変機嫌が悪く、
出仕した諸大名への対面もしようとしなかった。
皆どうしたものかと戸惑っているところ、
太鼓打ちの樋口というものが御前にまかり出て、
「目出度の御正月にて御座候。」
とご挨拶申し上げたところ、秀吉、
「なにが目出度の正月なものか!
天下を人に取られ、このように手狭なところに隠居してしまっては、
面白いことなど何も無いわ!」
と、ものすごい剣幕で吐き捨て、樋口、言葉もなく這々の体で引き下がった。
このような事なので大名衆への対面も何時まで経っても行われず、
これについて話し合った結果、
「今のようなご機嫌ではどうにもならない。
ここは主計殿(加藤清正)が御前へ罷り出られて、
お心に合うようなことを申し上げてご機嫌を直してきてくれ。」
こうして加藤清正が一人、秀吉の御前へと出た。
この時、清正、赤装束だったとか。
さて秀吉は清正に声をかけた。
「主計、名護屋城の普請はどうなっておるか!?」
清正はすぐさま、
「ははっ!名護屋の城、ことごとく出来ました!
大阪城に劣らない、素晴らしい出来でございます!」
「なに?もう出来た?ふむ…ふふふ、そうでなくてはならぬ。」
秀吉、たちどころに機嫌が直った。
そして名護屋城の完成を大いに喜び、諸大名へのご対面も無事、果たされたそうである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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