文禄の役、先鋒の加藤清正と小西行長、
この忠州から朝鮮の首都漢城へは二つの道があった。
小西行長は言う。
「ここから都に向かう二本の道は、
それぞれ漢城の東大門口、南大門口へと繋がっている。
南大門口は東大門口よりも10里近い。
だが南大門口はその間に大河が流れている。
さて、我ら両人どちらの道を行くか、お互い遺恨の起こらないよう、
籤によって決めようではないか?」
と、籤を差し出す。
ところが清正、籤になど見向きもせず、
「それがしが南大門口へまいる!」
と、勝手に決めつけた。
これには行長も、
「何と言う我侭なやり方であろうか!」
と怒る。
しかし清正、却って行長をあざ笑い、
「天草において一揆に攻め立てられ、わしに救援を求めたことを忘れたのか!」
と、さらに行長に言葉を浴びせた。
ちなみに天草の一揆とは天正17(1589)の小西領天草における天草五人衆の蜂起、
いわゆる天正天草合戦の事である。
このとき小西行長は加藤清正に、救援を依頼したとされる。
これに小西行長は、激怒した。
「今ここでの事と、天草の事は関係ないだろう!」
そう言って刀に手をかけた。清正これを見て大笑する。
「小西がおかしなことをしておるわ!
その気勢をどうして天草の時に出さなかったのか!?」
もはや売り言葉に買い言葉である。
お互い声高に罵声を浴びせ、今にも斬り合いにならんとした。
その時である。
「おやめなされ!」
加藤清正に同道してきた、鍋島直茂が、二人の間に入った。
「扨も扨も、日本軍の先鋒たるお二人がこのような事では、
日本国、および秀吉公の御外聞を失うではありませんか!
そのうえ御両人がここで討ち果てられれば、
秀吉公によるこの度の大陸出兵という構想は、
全く崩壊してしまいます!」
この直茂の言葉に冷静さを取り戻した加藤小西の二人、
「尤もである。」
と喧嘩を止め、
南大門口を加藤清正、東大門口を小西行長の担当と決定した。
が、小西行長は清正の言葉が許せず、
家臣の木戸作右衛門、日比左近右衛門に命じ、
その夜密かに、清正の軍勢が率いてきた船のともづなを切り、
残らず流してしまったそうだ。
後々朝鮮役全体に影響を与える、
朝鮮における清正と行長の最初の衝突についてのお話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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