文緑二年、大坂で豊臣秀頼が誕生した時、
父の秀吉は、秀頼の為にも天下に優れた武士を、
守役としてつけてやりたいと思っていた。
その時に、加藤清正の家臣である木村又蔵という武士が、
大変な勇士であったことを思いだし、
秀頼の守役とすべく清正に申し付けた。
清正は早速この名誉な命令を又蔵に伝えた。
すると又蔵は、
「秀頼公のお側には女どもばかりで、私のような武骨者が仕えるべき所ではありませんし、
私も勇気がなくなって役立たずになるだけです。御勘弁を。」
と言った。
清正も尤もではあるが、しかし秀吉公の命令なのだから断るにしても、
一旦は参上すべきだと説得したが、又蔵は、
「忠臣は二君に仕えず、私は死んだ母とそう約束しました。
ここで秀頼公に仕えれば、あの世で母に、会わせる顔がありません。」
と言って、その日の夜に切腹して果ててしまった。
清正は深く悲しみ、この事を秀吉に言上すると秀吉もまた、
我が一生の誤りであったと涙を流して後悔したそうだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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