賤ヶ岳七本槍とは、
加藤虎之助(後肥後守清正)、平野三十郎(後遠江守長泰)、脇坂甚内(後中務安治)、
加藤作内(後左馬助嘉明)、戸田三郎四郎(後民部勝隆)、福島市松(後左衛門大夫正則)、
糟屋内膳(武則)達であった。
彼らは、賤ヶ岳七本槍と成るまで、領地を150石づつ与えられていた。
ただし糟屋内膳は元播州赤松家の家臣であり、
赤松死去の後、良き才能を持った者として、
500石にて抱えられていた(実際は別所長治家臣)。
賤ヶ岳の合戦の後、七本槍のうち6人には、
三千石に帷子35枚、黄金5枚づつが与えられた。
しかし福島市松には、五千石に帷子25枚、黄金5枚が与えられた。
彼らには羽柴家の筆頭家老である杉原伯耆がその朱印を渡したのだが、
加藤虎之助が激昂し声高に叫んだ。
「市松も御一家なら我らも御爪の端であります!
どうして二千石も劣るのでしょうか!?
今度の槍働き、私は市松に少しも劣っていない!
これは伯耆様にお返しいたす!」
そういって、加増の朱印を受け取ることを拒否した。
虎之助の言葉は声高であったため、秀吉の耳にも聞こえ、
「虎之助は惣じてうつけ者であるな。今回の加増の後に、市松と同等に取らせてやろう。」
そう仰せになった。
後に虎之助には播州姫路において加増が有り、所領は合計して五千石となった。
福島市松は秀吉の甥であり、加藤虎之助は従兄弟である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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