徳川家康が、上杉征伐のため会津に下向した頃のこと。
石田三成は、大谷吉継に対し、徳川家康が会津征伐に向かう隙に反乱の兵を挙げる、
と告白した。
「畿内で兵を挙げ会津の上杉景勝とともに東西で挟み撃ちにするのだ!」
これを聞いた大谷吉継は言う。
「理屈では可能だろう。が、おぬしは、彼を知って己を知らぬ。
今武家のうち最も官位の高いものは誰か?家康である。
軍功を最も重ねた武将は誰か?家康である。
家臣を最も多く持っている大名は誰か?家康である。
家中が最もまとまっている家はどこか?家康である。
そして最大の所領を持っているのは誰か?家康である。
治部よ、この五つの内、一つとてそなたは及ばぬ。
これが、そなたが勝利出来ぬ理由である。」
三成は反論する。
「いやまて、天下の内秀頼公を尊崇しない者などいない。
そして今家康には、臣として君を犯す不忠の名がある。
私は忠を守り、幼君の命をいただき義兵を挙げる!
天下の諸士の内これに従わないものなどいようか!」
吉継は笑い出した。
「忠も不忠も、徳に寄るものだ。良く考えてみろ、
昔、新田義貞は後醍醐帝の勅を賜り足利尊氏と戦った。
忠も義も大義名分も全て義貞の側にあった。
だがどうだ、彼は勝利を得ることは出来なかった。
何故か?人々は天下の英雄尊氏に懐き、帝の威すら恐れなかったからだ!
わしが考えるに、今度おぬしが義兵を挙げたとしても、
未だ幼い秀頼公に付く者は、そう多くはないだろう。
だいたい、どうしてこの事をもっと早く知らせなかったのだ。
もし最初から知っていれば、家康が伏見にいたときに、
これを討つ手立てはいくらでもあっただろう。
せめて石部に宿泊した時であったなら、不意をつくことも出来たものを…。
家康は関東に下ってしまった。
行動の自由を許してしまった。
これは魚が水を得たようなものである。」
しかし吉継は結局、
「そなたを見捨てるのは義に欠ける。」
と、三成に協力する事になる。
大谷吉継はこれほど状況を冷静に見ていた、と言うお話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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