大谷刑部少輔(吉継)は、徳川家康に無二の忠節を申し上げ、
大事の相談の在った時も、心底に残す所無く、
家康の御為を大切にした人物であった。
ところが、宇喜多黄門(秀家)家中において不慮の紛争が起こった時(宇喜多騒動)、
大谷はこれを取り持ち、榊原康政も引き加えて紛争を解決しようとしたが失敗、
戸川肥前守、宇喜多左京、岡越前守、花房志摩守などは、
「宇喜多秀家から討ち手を向けられれば打って出る!」
と、その時の相印として上下皆坊主にした。
これを家康は聞き及び、康政を叱りつけた。
「関東よりお前と交代する平岩主計頭が既に上ってきているのに、
式部(康政)はどうして関東に下らず、
要らぬ他家への取り持ちをしているのか?
そのように欲にふけり、
取り持ちに対する礼物を欲しがるような者だったとは思わなかった!」
康政は、これを聞くやいなや、どこにも暇乞いすらせず、
早々と関東に下っていった。
大谷吉継は、このことを聞いて思った。
「式部をそのようにお叱りなされたということは、
私も同様に思われているということだ。
それにして言い方があるではないか。
取り持ちをしたのを礼物目当ての汚らしい心中であると仰せになったことは、
草履で面を踏まれたのも同然だ!」
そう家康を怨み、腹を立てて泣いたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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