さらに、大谷吉継に至っては☆ | げむおた街道をゆく

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慶長4年正月21日、加賀大納言(前田)利家、並びに奉行衆よりの使いとして、
元長老の生駒親正らが徳川家康の屋敷を訪れ、
「太閤御他界以後、数ヶ月も立っていないというのに、

各大名と御縁組を行ってっている儀、我儘である。」
との内容の抗議を申し上げたという。

奉行衆より、大崎少将(伊達)政宗、福島正則、蜂須賀家政の3将に使いがあった。
 

その内容は、各々が奉行衆に相談もなく徳川秀忠と縁組をしたことは、

御掟を背き不届きのことである、という物であった。

伊達政宗は、この返答に、
「私は知らないことだ。今井宗薫とかいう堺の町人がこの才覚をしていると聞いている。」
と言うばかりであった。その後奉行衆は、宗薫を呼び出し詮議をした。

福島正則と蜂須賀家政の返答の内、蜂須賀は、
「我ら阿波守護家は太閤の御爪の端にも連なる者です。

そんな我々が家康公親子と婚姻を取り行えば、
万端その御意を得ていないといっても、

これにより家康公が、猶以って秀頼公に御無沙汰することが無くなると考え、

この事は然るべしと判断し、婚姻を申し上げたのです。」
そう答えた。

この事により、諸大名は思い思いの行動をした。


内府公には、池田輝政とその一党、福島正則、黒田如水・長政父子、藤堂高虎、森忠政、
および新庄駿河守その他小身衆が集まり、

また有馬法印則頼、金森法印、織田有楽という人々も、
何れも関東方であった。
大小身共に、毎夜内府公の御屋形に詰めていた。

さらに、大谷吉継に至っては、
「もし家康公に敵が攻撃してくれば、私がいつでも先手を仕り、奉行共と一合戦いたします!」
そう宣言し、自身の屋敷に人数を集め奉行衆の軍勢を待ち受けていたという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 敦賀の人、大谷吉継

 

 

 

ごきげんよう!