かつては、下野東部に覇を唱え、宇都宮家や佐竹家相手に武威を張った那須七騎。
そんな彼らもさっさと豊臣秀吉に拝謁を済ませた、大関、大田原両家を除き、
小田原征伐までもたもた旗幟を鮮明にしなかったため戦後大きく所領を減らされ、
概ね元の五分の一から十分の一、二千石から一千石未満までに所領を減知されてしまった。
小田原開城までシカトしてた主家たる那須家に至っては改易処分である。
そんなこんなで経済的にへろへろになった那須七騎だったが、
それでもお勤めは待ったなし。
天正十九年には浅野長政に属して、大坂詰めの任務が言い渡された。
一万石、二万石の領主であった昔はともかく、
数千石の少録の身では遠隔の地での常勤は経済的に厳しい。
見かねた浅野長政は那須七騎を呼び出し、
「君ら、二人除いて小身になっちゃったし。
無理に詰めないでも、連番で出仕したらいいよ。」
と言い渡した。
大身のままの大関と大田原も、順繰りに帰っていいことになってるのは謎だ。
さて、那須七騎は大いに喜び、早速帰国の順番を相談する。
結果、伊王野資信と芦野盛泰がまず最初に帰国することとなり、早速大坂を出立した。
で、浅野と仲の悪い告げ口魔に見つかった。
「那須の輩は不届き千万で御座います。誰からの指示もないまま、勝手に帰国し申した。」
その告げ口に激怒した秀吉は即座に、早馬を立てて伊王野と芦野を呼び戻した。
既に下野に入国していた両名は慌てて大坂に馳せ戻り秀吉に詫び、
関八州を委ねられていた徳川家康の取り成しもあってなんとかかんとか事無きを得た。
この一件によって那須七騎の豊臣政権への不満と、
告げ口魔への憎悪が募ったとのは言うまでもない。
ではその告げ口魔、誰かといえば恐らくは想像がおつきであろう。
石田治部少輔三成その人である。
これから九年後の慶長五年、関が原の合戦では那須衆はひとつの例外もなく徳川方に参じ、
上杉景勝との合戦に軍功があったそうな。
那須町誌には那須衆の一糸乱れぬ徳川方加勢の姿勢のその理由を、
この時の怨恨大なるが故としている。
以上、石田三成呼吸をするように敵を作るというお話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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