石田三成は、天下分け目の関ヶ原の合戦で、大敗を喫した。
そして彼のいない佐和山城に、小早川秀秋の軍をはじめとした、
東軍の軍勢が押し寄せてきた。
三成は豊臣政権の中枢に長くありながら、
普段から質素倹約に努めていたことで有名だったので、
寄せ手の兵は、
「佐和山城の内部はきっと華やかで、金品も蓄えられているだろう。」
と思っていたそうだ。
しかし城に入ってみれば、そこは華やかな外観とはうって変わり、質素な風情だった。
住居の壁には上塗りが施されておらず、荒壁がむき出し、室内の多くは板張りのまま。
庭も地味なもので四季を彩るような樹木が植えられておらず、
手水鉢も石そのもののような粗末さだった。
また、東軍に仕えた医師・板坂卜斎の手記には、
「佐和山には、落城以後金銀は少しもなし、治部(三成)貯え申さず候由。」
と記録されている。
つまり三成は関ヶ原の戦いに挑む直前に、ほぼ全ての金品を西軍に投資していたのだ。
三成は生前、こう周囲に話していたそうだ。
「奉公人は主君より取る物を遣い合わせて残すべからず。
残すは盗なり。遣い過して借銭するは愚人なり。」
彼はこの言葉どおり最後まで奉公人として、
主家豊臣家のために全てを尽くそうとしていたのだろうか。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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