慶長5年、関ヶ原の戦いに敗北した石田三成は、
近江伊吹山の奥に隠れていたのを、
田中兵部少輔吉政の手の者によって捕縛された。
この時、三成は自分の帯びていた貞宗の短刀を吉政へと贈った。
しかし吉政は、その短刀を徳川家康へと差し出した。
「この脇差は、治部少輔が腰に帯びていたもので、
私に贈られましたが、囚人である彼から物を受けるのはいかがかと思いますので、
公儀に納めて頂きたく思います。」
家康はこれを聞くと、吉政に言った。
「そなたの申す所は尤もだと思う。
だがな、この貞宗の脇差は『切刀(きりは)』と号して、
元は明智日向守光秀の秘蔵していた物を、
太閤(秀吉)が手に入れ常々自慢しておられた名刀である。
先年、石田が拝領して常に身から離さなかった。
それを今足下に贈ったのも、定めて志あっての事であろう。
その志を虚しくするというのは、石田に対して気の毒である。
殊にこれは太閤の御遺物でもあるから、私から改めて指図しよう。
兵部少輔、その脇差を、長く所持するが良い。」
このように懇ろに言われ、田中吉政はこれを受けたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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