慶長五年(1600)十月一日、
石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は六条河原において斬首。
その首は三条大橋にて晒された。
洛中の貴賎はこの三将の首を見て、
「この人々、太閤御在世の頃には権威甚だ盛んで、
諸侯からも大いに尊敬を受け、我々のようなものが、
顔を見るなど考えもできなかったのに、今はこのように梟首されて、
間近に顔を見ても咎める人もなく、
警護する供人もいない。」
そう言って世の転変の恐ろしさを語り合った。
さて、この見物の中の、60ばかりの男が言うには。
「この三人のうち石田殿は、大織冠 (藤原釜足)の末裔だとは聞くが、
卑賤より身を起こして大名となり、天下の奉行職まで司った。
しかしその栄華は一代も保つこと無く、このようなあさましい有様になってしまった。
これが『亢竜の悔』(栄達を極めた者は慎まないと失敗する恐れがある)と、
いう物なのだろう。」
すると、傍に居た者がこれを聞いて、
「私が思うに、武士たらんとする者は石田殿こそ守護神と仰ぐべきである。
何故かと言えば、太閤薨去の後の天下は内府公のものであると、
これは幼い童までそう考えていたほどである。
況や諸国の大名の内にも、あえてこれに背こうという人はいなかった。
中に、この時わずかに佐和山城主に過ぎなかった石田殿一人は、
諸侯を語らい合わせ、大乱を起こした。
しかし不運にして本懐を達すことが出来なかったのは、ただ天命であったのだろう。」
と言った。
これらを聞いていた50ばかりの僧。
「お二人の評論、それぞれ尤もだと思います。
しかしある人が私に語ったところによると、
今度の関ヶ原の大乱は皆、
家康公の計略であったと言うのです。
『乱して治める。』という古語があります。
家康公は石田殿が諸侯と不和になり、乱を起こすよう誘導した。
これによりたちまち大乱起こり、今果たして、家康公に敵対する者たちは尽く滅び、
太平の御代となって庶民は安堵しています。
しかし、果たしてこの乱がなければ、世の中は今のように治まったでしょうか?」
三将斬首の後の、三成に関する人々の評論である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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