慶長5年(1600)9月14日、関ヶ原の役。
赤坂に徳川家康の旗印が立つと、西軍は大いに動揺した。
その日、石田三成は大垣に諸将を集め軍評定を行う。
ここで島津兵庫頭(義弘)が提案した。
「今夜、野郎共を赤坂に遣わし、先陣の陣屋を焼き払えば、
敵陣は必ず騒動となるでしょう。
その時、大軍を以って合戦を行えば、一戦にて敵を尽く討ち滅ぼせるでしょう。」
しかし石田三成は反論した。
「今度の合戦は必ず勝利する。田中兵部(吉政)も我らに味方して、
合戦中に返り忠を行うと確約した!」
これより前、三成は田中吉政に使いを出し書状を以って、
自分たちに味方するよう申し遣わしたが、
吉政は偽って同意の返事を出したのを、三成は信じ、
彼を頼りとしたのだという。
これに義弘。
「田中の返り忠というのは心もとない!左様なこと、多くは期に望んで相違があり、
また謀にて偽りの同心の返事をした可能性もある。
それを頼んで明日の合戦が必勝とは、愚かなことである!
今日、内府は長途を来て軍兵皆草臥れており、陣法も未だ定まってはいないでしょう。
その上士卒たちは陣屋を営み、食料の調理に立ち騒げば、
いよいよ疲れて夜更けて熟睡することでしょう。
そこに大軍を以って夜合戦をかければ必ず勝利を得るべし!
これは実を以って虚を討ち、佚を以って労を討つの計なり!」
それでも、三成は遂に同意せず、島津の謀は空しくなった。
その頃、内府公の陣所では、
『今夜は夜討来ること有るべし。油断すべからず。』
との仰せにより、篝火を焚き、夜回り隙無く、遠見の番まで置いて用心を怠らず、
その軍法は厳密であったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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