石田治部少輔が、七将襲撃事件の結果、佐和山に引退した後、
徳川家康は、伏見城より柴田左近を三成への使いとして出した。
柴田左近が佐和山に到着すると、三成は柴田と格の合う家臣の屋敷に、
彼を案内させた。
柴田が休息を取り行水も済ませた頃、三成が自身でこの屋敷に参り、
「大儀であった。」
と、持参した弁当で彼をもてなした。
これは佐和山城より持ってきたものだという。
後刻、城に上がり家康よりの遣いの内容を伝えた。
その後、
「風呂を焚かせたので入浴するように。」
との使いが来た。
三成は客人を迎える亭主として、欠けるところ無い振る舞いであった。
翌日、柴田左近は日の出の頃、佐和山を出立しようとしたが、
そこに何と、三成自身が見送りに来た。
居室でしばらく雑談をし、出立するときは表に出て、門まで彼を見送った。
この別れのとき、三成は、
「これは葛籠ですが、馬に付けてお帰りなされ。」
と、渋紙で包細引きで念入りに結ばれた物を、柴田に渡した。
宿に着いた後それを開けてみると、そこには念の入った造りの小袖が5つ、
良き拵えの脇差しが一腰あり、それには『百貫』との折紙が付いていた。
この頃、百貫の脇差しなどというものは希少で、
また小袖5つの土産なども聞いたこともない時代であった。
この時代の百貫というのは、現代の千貫よりも価値が高かった。
また本阿弥の折紙が添えられているのも、殊の外稀なことだったのである。
現代のように上使というような事も、奉書などというものも無かった。
慶長4,5年の頃を覚えている者は、
『ここに言われている通りだ。』
と答えるだろう。
現代ではこういった重々しいもてなしは多く有るだろうが、
当時は沙汰もなかったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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