上田籠城の時、織田、徳川、北条の三将、
二十余万の大軍を以て百重千重に取り囲み、
水も漏らさぬばかりにヒシヒシと取り詰め、
哀れ上田城は粉々に踏み崩されんとしていた。
これには流石の真田昌幸も、城兵僅かにニ千余り、今は防御の術も尽き、
如何にすべきかと思案し、苦慮していた所、倅の幸村、当年十四歳であったが、
彼が『鶏卵煎り砂の謀計』を考えだした。
彼は鶏卵を二つに割り、中身を取り除いてこの中に煎り砂を入れて合わせ、
水に浸した紙を割口に巻いた。
これを数万作り出し、それぞれの櫓に十籠、二十籠づつ取り備え、
寄せ手を遅しと待ち構えた。
頃は天正十年三月二十五日の朝(ちなみに実際の第一次上田合戦は天正十三年閏八月である)、
織田徳川北条の軍勢はどっと鬨の声を作り押し寄せ、
鉤縄打ち掛け勇みに勇んで攻め立てた。
城中よりは、「時分はよし。」と、件の鶏卵を合図とともに投げつけた。
兜面頬があっても、当たれば砕け、煎り砂は兵士の眼に入り、
さしもの勇者たちも暗夜をたどるに異ならぬ有様。
城中よりはこれをみすまし、「時分は良きぞ」と、
松本口の織田勢には真田源次郎(信之か)、
軽井沢口徳川勢には隠岐守信尹、笠ヶ城北条勢へは与三郎幸村、
何れも三百余人を率いて鬨を作り攻めかかれば、
盲目に等しい寄せ手の面々は戦うことも出来ず、我も我もと敗走し、
同士討ちするものもあり、踏まれて死ぬものもあって、
二十余万の大軍が、雪崩掛かって落とされたのは、たいへん見苦しい有様であった。
この状況に信長は、如何にすべきかと思慮を巡らしたが、
今だ良き工夫もつかぬ所に家康が現れ、
「鶏卵煎り砂の目潰しを防ぐためには、竹束を以て盾とし、
鎧の袖を額にかざすより他、術がないでしょう。」
そう献策した。
これにより夥しい竹束を用意し、またもや押し寄せた。
しかし幸村は、
「煎り砂に懲り果てた敵兵は、今度はこれを防ごうと竹束の盾を必ず用意してくるであろう。」
と推察しており、あらかじめ多くの投げ松明を用意していた。
果たして先手は竹束を束ね、後ろに太い棒を取り付けた物をひっさげ、
目潰しの鶏卵が今や降ってくるかと待つ所に、城中は静まり返って音もせず、
寄せ手充分に近づいた所で、一発の銃声が響くとともに、
三方の櫓より松明が投げつけられた。
すると油を注いだかのように、竹束はみるみるうちに燃え上がり、
寄せ手の者達驚き騒ぎ、消そうとするもうまく消火もできず、
散々となって我先にと敗走した。
何故か甲州征伐とごっちゃになっている上田合戦のお話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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