大坂城に於いて軍評定の時、真田左衛門(信繁)がこう申した。
「旧冬の御和議は、至極残念でした。
旧冬まではこちら方に心を通じる大名もあったのに、
御和議となり、惣堀まで埋め、皆悉く降参のようになりました。
大御所(家康)は名将であり、衆心を摂り、旧冬の働きも、軽き功を重くし、
小さいことでも大きく感じ給う故、上下ともにいよいよ親しみ付いています。
さて又、京、伏見へ発向し、膳所、大津は手勢を遣わし、
瀬田の橋を焼き落とし、京、伏見を確保してしまえば、
その内に味方に通じる衆も有るはずですが、味方の密談は敵に漏れており、
この儀も成りません。
野戦をしようにも、味方は小勢であり寄り合い武者ですから、中々勝利は得難いでしょう。
御籠城なさる外に手立て有りません。
であれば、我等はいかにも怯懦の体を示し、それによって、
『大坂方は臆して戦いに出てこないのだ。』
と、敵に思わせれば、彼らに驕る心が出来ること必定です。
驕りが出来れば軍法が乱れます。
その節を見て、秀頼様が大広間に御出になり、面々に御抔を下され、
御言葉に預かれば、衆心一統し、一戦を望むのは勇士の本意です。
その時、「真田次第」との御諚を承れば、
私が両御所(家康・秀忠)の御陣場を見定め、彼らの不意を突いて、
又は夜戦の奇変、それがしの一身の采配にて御座あるべし!」
そう申した所、譜代衆その他、「自分こそ総大将を。」と思う輩も多かったため、
「真田の只今の言葉、我々を差し置いて総人数の采配は推参至極なり、耳の穢である!」
と謗る故、内輪の破れと成り、互いの権争のため評定不調となった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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