大坂冬の陣、東方の寄手である真田伊豆守信之家臣の、
矢澤但馬、吐田筑後、榊原石見の三人は、元より武功の者であったので、
敵が矢鉄砲を激しく撃ちこむのも恐れず、一番に仕寄りを付けた事は、
両将軍(家康・秀忠)からも賞賛された。
この時、伊豆守の手勢が仕寄りを付けるにおいて、
非常に勇敢であったのを、大坂方の木村長門守重成も大いに感じ入り、
或る夕刻、真田左衛門佐が出郭より本城に帰った時、重成は彼に対し、
東を指差して言った。
「あそこの、紺地に六文銭の旗の陣が最初に仕寄りをつけました。
あれはあなたの一族でしょうか?
もしくは他門でしょうか?
彼らは実に、城攻めの妙を得た者達です。」
真田は答えた。
「あれは兄伊豆守の陣です。
ただいま軍兵に先立って下知している二人の若武者、
一人は河内守(信吉)といって16歳、もう一人は内記(信政)といって14歳。
どちらも私の甥であります。
亡父昌幸の余風があって、彼らも健気に働いているようです。」
重成はこれを聞くと、
「その兄弟は、普段は何色の鎧をつけているのでしょうか?
今から軍兵たちに、二人には鉄砲を用いないよう申し付けたい。」
「それは情ある言葉です。
しかし彼らは若年であると言っても、他の軍勢に先立って仕寄りを掛けるなど、
味方にとってはなかなかの剛敵です。
ご存知でしょうが、忠義のためなら親疎も言い出さないのが武士の習いですから、
私の一族だからといって、弓鉄砲での攻撃を避けるというのは考えもできません。
彼らもまた、私を見れば必ず攻撃して来るでしょう。
であれば、誰にかぎらず秀頼公の敵と見れば、席を去らずに討ち果たすべきです。
これが武士たる者の本意です。」
そう語ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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