真田左衛門佐幸村(真田信繁)は、父安房守昌幸といっしょに、
高野山九度山に配流され、昌幸は慶長の末に死んだ。
左衛門佐は一人九度山に住んでいたが、
大坂の陣の初め、秀頼公より大野修理亮治長が承り、
大坂城に籠れという御言葉を賜ったため支度した。
紀伊国守の浅野但馬守長晟は、橋本峠村近辺の百姓どもに下知し、
「世上の噂に、真田左衛門佐が大坂への返事をしたと聞く。油断あるまじき。」
と触れを出した。
高野山学匠ならびに宗徒にも、九度山からの遁人監視を申し付けた。
真田幸村は、九度山近辺、橋本峠、橋谷の庄屋から小百姓にいたるまで、
残らず振舞おうと触れをまわし、九度山に招いた。
数百人の並いる者たちに対しさまざまに饗応し、酒を出し、
上戸も下戸も問わず酒を強いること斜めならず、皆酔って臥せて前後不覚となった。
この時、百姓どもが乗ってきた馬に荷をつけ、妻子を乗物に打ち乗せ、
上下百余で弓鉄砲を持って押し立て、
紀ノ川を渡り、橋本峠、橋谷を通り、木目津を越し、河内に入り、大坂にむかって行った。
道筋の百姓どもは残らず九度山に行って酔い臥していたため、
残っていたのは女子供だけであった。
しかも真田は、槍や刀を抜き、鉄砲に火縄をさしていたため、
とうてい止められるものではなかった。
さて百姓たちは明け方に酔いから醒めたが、見れば宿屋には一人もおらず、
雑具まで取り払われ跡形もなかった。
これは出し抜かれたと東西を尋ねたが、
昨晩のうちに立ち退いたため追いつくはずもなかった。
橋本峠、橋谷の己の家に帰り、家族に尋ねると、
「昨夜の八つ時に真田殿が、奥方や子連れで馬に荷をつけ、
弓鉄砲を押し立てて河内の方へさして行きました。」
と告げたため、百姓どもはみな頭を掻いたがどうにもしようがなかった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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