九度山脱出☆ | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

 

真田左衛門佐幸村(真田信繁)は、父安房守昌幸といっしょに、

高野山九度山に配流され、昌幸は慶長の末に死んだ。
 

左衛門佐は一人九度山に住んでいたが、

大坂の陣の初め、秀頼公より大野修理亮治長が承り、

大坂城に籠れという御言葉を賜ったため支度した。
 

紀伊国守の浅野但馬守長晟は、橋本峠村近辺の百姓どもに下知し、
「世上の噂に、真田左衛門佐が大坂への返事をしたと聞く。油断あるまじき。」

と触れを出した。
 

高野山学匠ならびに宗徒にも、九度山からの遁人監視を申し付けた。
 

真田幸村は、九度山近辺、橋本峠、橋谷の庄屋から小百姓にいたるまで、

残らず振舞おうと触れをまわし、九度山に招いた。
数百人の並いる者たちに対しさまざまに饗応し、酒を出し、

上戸も下戸も問わず酒を強いること斜めならず、皆酔って臥せて前後不覚となった。
 

この時、百姓どもが乗ってきた馬に荷をつけ、妻子を乗物に打ち乗せ、

上下百余で弓鉄砲を持って押し立て、

紀ノ川を渡り、橋本峠、橋谷を通り、木目津を越し、河内に入り、大坂にむかって行った。
 

道筋の百姓どもは残らず九度山に行って酔い臥していたため、

残っていたのは女子供だけであった。
 

しかも真田は、槍や刀を抜き、鉄砲に火縄をさしていたため、

とうてい止められるものではなかった。
 

さて百姓たちは明け方に酔いから醒めたが、見れば宿屋には一人もおらず、

雑具まで取り払われ跡形もなかった。
これは出し抜かれたと東西を尋ねたが、

昨晩のうちに立ち退いたため追いつくはずもなかった。
 

橋本峠、橋谷の己の家に帰り、家族に尋ねると、
「昨夜の八つ時に真田殿が、奥方や子連れで馬に荷をつけ、

弓鉄砲を押し立てて河内の方へさして行きました。」
と告げたため、百姓どもはみな頭を掻いたがどうにもしようがなかった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 真田丸・異聞、目次

 

 

 

ごきげんよう!