真田安房守(昌幸)は、大坂の一戦(大坂の陣)の三年前に、
高野山の麓、瀬良という場所で病死した。
その死に至ろうという時、息子の左衛門佐(信繁)に、このように語った。
「私が今から三年存命していれば、秀頼公へ容易く天下を取って進上すべきものを。」
左衛門佐はこれを聞くと、
「いかにして天下が秀頼公に服させるのでしょうか?」
と尋ねた。
しかし安房守は、
「重病故に、心乱れて筋無き事どもを申してしまった。
どうやって、今や乞食同然に成り果てた私が、
天下を取って秀頼公に進上するというのか。」
と、答えなかった。
左衛門佐これに、
「私に対して御慎みはあるまじき事です。
是非、思っておられることを仰せ聞かせて下さい。
これは懺悔の御物語ともなるでしょう。」
と、たって所望したため、
安房守は、
「そういう事であれば、懺悔の物語として聞かせよう。
おそらくここ三年の内に、家康は叛逆して軍兵を催し、
秀頼を討ち果たそうとする事は必定、掌の如くである。
その時、私が存命ならば、人数三千ばかりを引き連れ、
勢州桑名を越えて備えを堅く立てれば、
家康は私が数度手並みを見せているので、
真田が出向くと聞けば家康も容易く懸け向かう事は無い。
そして暫くこれを相支える内に、太閤の御恩賞の諸大名多ければ、
大坂へ馳せ集まる人も多いであろう。
そして家康勢が押しかかって来れば、桑名へ撤退し、
また先のように相支え、又押し懸けて一戦せんとするならば、
さらに撤退してそこで支える。
そのようにしている内に、こちらは悉く人数が集まるであろう。
さて、我等は瀬田まで撤退し、瀬田の橋を焼き落とし、
こちら側には柵を付けて相支えれば、数日ほども経す内に、
畿内の人数が馳せ集まる事、掌の如きである。
然らば天下を治めること、手の裏に有り。
…と云うものの、これは皆妄念の戯言である。
長物語に、胸が苦しくなった。水を飲もう。」
そう言って水を飲み干すと、そのまま死んだという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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