綱吉のころというから、寛永よりもっと後のことだろう。
主君・真田信之のお出ましというので、
若侍達は慌てて弓場へ駆け、我先に弓を競った。
信之、その様子をにこやかに眺めていたが、ふと、
「そういえば、残念なことをしたのう。」
と呟いた。
近侍の某、何事ですかと問うと信之、
「儂がまだ童髪のころだったが、加賀美四郎という弓の名人がいてな、
なんと騎上から逆手で右方にも弓を放つことが出来たのだ。
そのお父上の信濃殿のころには、
まだ甲斐では時に騎射で勝負することがあったといって、
信濃殿は相手と同じ方向に駆けながら、
逆手に打って射落としたり、
上(上手?右側?)に走っていくから安心と思わせて、
不意に射かけ斬り入ったりと自在だったそうだ。
儂は子の四郎殿のなされるのをただ一度見たことがあるが、
あれは精妙で珍しいと思ったものだった。
無口で不細巧な方で、あまり人前で誇ったこともなさらなかったから、
亡くなったあと絶えてしまっただろうか。
あの時はあんなに感心したというのに、今では?(ゆがけ)をどうしていたのか、
入り(?)や出(?)をどうしていたのかも思い出せない。」
ところが、綱重に付属され書院番であった田澤又兵衛昌長(まさたけ)が、
寛文四年に逆手弓で的を射てものを賜い、
のち先手弓頭になったという。
お兄ちゃんが絶滅を惜しんだ逆手弓の技術は、ちゃんと保存されていたといういい話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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