天正十年、本能寺の変を受けて、関東の情勢も流動的になってくる。
特に上州では神流川合戦の直後、沼田城の真田氏が北条氏に仕掛けて撃退されると、
今まで真田氏に従っていた国人衆は一気に北条寄りか、日和見に傾いて行った。
表向きでは和睦を結んだり、北条に従うと言ってみたり、
外交の駆け引きを続けている真田昌幸ではあったが、
徳川氏や佐竹氏の動きを睨みつつ、逆襲の機会を窺っていた。
そして勿論、北条氏の側もそれを十分承知の上であった。
先の交戦から三ヶ月、今度は北条氏から攻撃を仕掛ける。
富永主膳、多目周防守等を大将として吾妻郡に侵入した北条軍約五千は、
大戸真楽斎&但馬守兄弟の守る手子丸城を落した。
手子丸城を落せば真田信幸の守る岩櫃城まですぐである。
「今すぐに進撃するべきだ。」
「いや、一旦建て直し、手子丸の支配を万全にした方がいい。」
そんなこんなで長引く軍議。北条軍のお約束。
勿論、北条軍は五千、信幸率いる真田軍は八百。
数が違う。
信幸が取る策は篭城以外にありえない、と言う余裕があったのだろう。
信幸は篭城では勝ち目がないと見るや、
八百騎で手子丸城に攻め寄せてきたのである。
まずは二百騎を裂いて城に攻め懸ける。
北条軍が応戦に出てくると、すぐに川沿いを下って退却。
追撃にかかる約一千騎を城から引き剥がした。
そして百五十騎で城に攻撃を始めると同時に、裏手の寺に放火する。
寡兵の筈の真田軍が、あちらからも、こちらからも湧いて出てくる。
圧倒的多数の筈の北条軍に動揺が広まり始めた時、
「あ、あれこそが真田信幸!」
寄せ手の中に金の馬鎧をつけた武将を見つけた北条軍は、深く考えるゆとりもなく、
飛びついてしまう。
……ところがどっこい。
この金の馬鎧をつけた武将、唐澤玄蕃允と言う。
ハッキリと言ってしまえば囮だ。
本物の信幸はどこに?
そう、主力中の主力、信幸直轄の兵三百と共に森の中に潜んでいた。
唐澤の姿しか見えていない富永&多目の主力部隊の、
横腹からその精鋭部隊が伏兵として襲い掛かる。
圧倒的多数の兵を持ちながら、散々に追い散らされた北条軍は、
手子丸城に逃げ込み、篭城を決め込む。
この時点で味方が追い散らされ、
自分達を城外に残したままで篭城を始めた事を知った一千騎(先ほど深追いした連中)、
城兵との合流や連携を諦め、厩橋城目指して退却を始める。
そしてまた、榛名山の方角に逃げていく味方の旗を見た城内では、
我も我もと逃げ出す兵が続出する有様であった。
この様子を見た信幸は、
「裏門から逃げて行く連中がいるな。
よし、裏門を封鎖して落ち延びる連中を片端から討ち取ってしまえ。
後、敵は大手門の防衛ばかりに気を取られ、
北の丸には誰も居ないように見える。そこから侵入するのだ。」
この命を受けた唐澤玄蕃允ら五十名は、岩伝いに北の丸に侵入すると、
信幸の見た通り、人っ子一人いない。
ちょうど腹が減った彼等は飯を食って腹ごしらえした後、周囲の建物に火を放ち始める。
富永&多目は城中から上がった火の手を見て、
「裏切りだ」「国人衆が寝返った」
などと叫びながら逃げ延びて行った。
北の丸に侵入し五十人は、逃げ延びる敵に紛れ込み、
それぞれが五人、三人と討ち取る高名を挙げたという。
中でも一場茂右衛門は、城門の前で待ち構え、
逃げてくる敵を一人で十七人も討ち取る手柄を立て、
信幸直属の馬廻りとして取り立てられたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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