(勝頼が、昌幸ではなく小山田の策を用いて裏切られた後、なぜか新府城で?)
信幸公が勝頼公に召しだされ、
勝頼、
「昌幸のこたびの忠心は忘れぬ。小山田の言葉を信じたためにこうなってしまうとは、
とうとう神にも見放されたようだ。昌幸は私を甲斐のないものだと思ってるだろう。
どうか、お前の母、弟、一族を無事に逃がしてやってくれ。お前たちの繁栄を祈る。」
と杯を賜り、甲州黒という名馬、金作りの太刀を下賜された。
また、勝頼公は若年の落人であれば生け捕りになりかねない、
と考え数十人をさいて5,6里送り届けさせた。
これも昌幸公の忠義に感じいったからである。
信幸一行は、三月五日新府を引き払い、信濃境に向かっていると、
甲州の落人狩りのため盗人百人から二百人が襲ってきた。
当時、信幸十七歳、御弟の藤蔵(信繁)十五歳、源五郎七歳、御姉十八歳、
そのほか矢沢、根津、室賀の娘などが同道していた。
信幸公は先陣に進み、その勢男女二百余人で盗人を追い払い、鳥居峠で人馬を休ませた。
このことは盗人に知れ渡ってしまい、
信州のスッパ、上州、武州のワッパ千人余りが集まって峠の麓で鬨をあげた。
信幸公の母は百千の雷鳴に勝る鬨を聞き、
母、
「多勢に無勢、しかも度々の戦で我々は手傷を負ってます。潔く自決をしましょう。」
と涙ながらにおっしゃったが、
信幸公は武勇の大将であるため、怒ってその母親に申し上げた。
信幸、
「あの程度の烏合の衆、百万騎でも物の数ではありません。ご安心を。」
と鎧の上帯を締め直し、十文字の槍を取り、勝頼公より賜りし甲州黒にまたがり、
手勢二百人を五十人、五十人、百人に分け、鬨の声をあげさせた。
盗賊たちは、さては落人ではなく尾張勢であったかと思い、逃げ去っていった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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