天正十四年、九州制覇の野望を遂げるべく、島津軍が北上を開始した。
大友方の城は次々と陥落し、紹運の篭る岩屋城にも、
島津忠長の軍勢が迫っていた。
そうした折、岩屋城に、立花山城を守っていた宗茂からの使者が来た。
「地の利が悪い岩屋城に比べ、宝満山城は要害の地。
かの城にて篭城すれば、秀吉公の援軍が到着するまで、
島津軍を食い止められましょう。」
紹運は、その使者に返事を与えて城へ帰した。
「宗茂の言うところは至極最もである。
確かに宝満山城は要害であるが、地の利は人の和に如かずという。
いくら堅固な城に篭ろうとも、人の心が一つにまとまらねば意味を成さぬ。
それ以上に思うのは、我が家が今まさに滅びの時を迎えているということだ。
時の流れにつれ、全てのものに栄枯盛衰があるのが世の習いである。
滅亡の時が来たのなら、たとえ堅固な城に篭ったとしても逃れえぬであろう。
なれば、多年の居城を枕とし、節を守って死ぬことこそ勇士たる者の本意である。
ここにわしが篭れば十日は守られるであろうし、寄手の三千くらいは討ち取ってみせる。
そうなれば、続けて立花山城に攻め入ったとしても、二十日は持ちこたえられる。
三十日も稼げば、秀吉公の援軍も到着するであろうから、宗茂は生き永らえられよう。
さすれば、わしがこの地に果てようとも、
宗茂さえ無事ならば亡き道雪殿に対しても顔が立つし、宗茂の武運も開けよう。」
同年七月二十七日、紹運は自害し、岩屋城に篭った兵も全て討ち死にしたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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