幼童より必ず異相著るる者☆ | げむおた街道をゆく

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高橋紹運公が、未だ御若年にて豊後に御在居の時、孫七郎と申していた時分、

御舎兄の吉弘鎮信公より、彼を斎藤鎮実の御妹と婚約させたいとの仰入があり、

これにより縁談についてはまとまった。

 

その頃、豊前表では中国衆との防戦の最中であり、かれこれと時が移ってしまった所、

ある時、孫七郎公が斎藤鎮実と対談した。

心静かに挨拶を交わした上で、公は仰せになった。
「兄である鎮信より内々に、御妹子を申し請け、

私の宿へ迎えることを御契約申し置いていたのに、

世上の惣劇の故に今まで引き延してしまいました。

この事について、私は必ず申し請けたいと考えており、

その事をお心得に成って頂きたいと、このように直談いたしました。」

これに斎藤鎮実は、
「仰せのように内々に鎮信殿と話し合いをし、その通りの首尾となりました。

しかしながら、その後、妹が疱瘡を患いまして、

見苦しい容姿と成ってしまいました。

このままではもご覧に入れる事も難しく、現状として、
この婚姻をすすめるのは叶い難いと思っています。」
このように返答した。

 

これに対し公は仰せになった。
「それは近頃、思いもよらぬ御意であります。

私は聊かも、好色を求める人間ではありません。
斎藤殿は御先祖以来、豊州家(大友家)において流石の弓取りの名を保っております。

であればその血筋を受ければ、

子孫に於いて定めて疎略の義は有るまじきと、

頼もしく思い所望したのです。御辞退の義には及びません。」

これにより、間もなく斎藤鎮実の妹と御祝儀があり、

この御腹より、統虎公(立花宗茂)、統増公(立花直次)が御誕生され、

御兄弟共に日本国内は言うに及ばず、朝鮮までも隠れなき名将と成られたのは、

実に殊勝なる事である。

 

この頃、孫七郎公は、未だ二十歳にも満たなかったと云うが、

その御きざしは衆に異なるものがあったのだろう。
 

古より申し伝わるように、

名人たらん者は幼童より必ず異相著るる者とは、信なのだろう。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 乱世の華・高橋紹運、目次

 

 

 

 

 

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