高橋紹運公が、未だ御若年にて豊後に御在居の時、孫七郎と申していた時分、
御舎兄の吉弘鎮信公より、彼を斎藤鎮実の御妹と婚約させたいとの仰入があり、
これにより縁談についてはまとまった。
その頃、豊前表では中国衆との防戦の最中であり、かれこれと時が移ってしまった所、
ある時、孫七郎公が斎藤鎮実と対談した。
心静かに挨拶を交わした上で、公は仰せになった。
「兄である鎮信より内々に、御妹子を申し請け、
私の宿へ迎えることを御契約申し置いていたのに、
世上の惣劇の故に今まで引き延してしまいました。
この事について、私は必ず申し請けたいと考えており、
その事をお心得に成って頂きたいと、このように直談いたしました。」
これに斎藤鎮実は、
「仰せのように内々に鎮信殿と話し合いをし、その通りの首尾となりました。
しかしながら、その後、妹が疱瘡を患いまして、
見苦しい容姿と成ってしまいました。
このままではもご覧に入れる事も難しく、現状として、
この婚姻をすすめるのは叶い難いと思っています。」
このように返答した。
これに対し公は仰せになった。
「それは近頃、思いもよらぬ御意であります。
私は聊かも、好色を求める人間ではありません。
斎藤殿は御先祖以来、豊州家(大友家)において流石の弓取りの名を保っております。
であればその血筋を受ければ、
子孫に於いて定めて疎略の義は有るまじきと、
頼もしく思い所望したのです。御辞退の義には及びません。」
これにより、間もなく斎藤鎮実の妹と御祝儀があり、
この御腹より、統虎公(立花宗茂)、統増公(立花直次)が御誕生され、
御兄弟共に日本国内は言うに及ばず、朝鮮までも隠れなき名将と成られたのは、
実に殊勝なる事である。
この頃、孫七郎公は、未だ二十歳にも満たなかったと云うが、
その御きざしは衆に異なるものがあったのだろう。
古より申し伝わるように、
名人たらん者は幼童より必ず異相著るる者とは、信なのだろう。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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