阿閉城の防戦☆ | げむおた街道をゆく

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播州において、織田信長による三木城攻めが行われていた頃のこと。

毛利輝元の中国勢、並びに紀伊淡路の兵あわせて8千あまりは軍議し、
「別所長治に同調せず、

織田方についた別所孫左衛門(重棟)の籠もる別府の阿閉城を攻め落とし、
その上で三木城の別所の人数も相加え、大軍を以って姫路へ押し寄せたなら、

羽柴秀吉・小寺政職もこらえかねて城から出て戦うだろう。

その時に勝負を決すべきである。」

そう決定し天正6年(1578年)4月1日、船手より阿閉城へと侵攻を始めた。

この動きを察知した小寺官兵衛孝高は、

即座に精鋭五百を率いて阿閉城へと入り、諸卒に下知した。

「この城は人数少なく城郭も堅固ではない上に兵糧も乏しい。

敵が時間をかけ、攻め支度を備え軍法を整えてここを攻略されては、

小勢を以って防ぐこと難しく、必ず落城するだろう。
であれば、長期の籠城をするよりも、敵が寄り来たばかりで行列も未だ整わず、

攻める用意も無い内に、
速やかに門を開き突き出て戦えば、必ずこの一戦に理を得ることができる。

この城が要害おろそかであることが幸いである。

敵がこの城を見れば必ず侮り、大勢であることを頼んで、
仕寄(攻城施設)も付けず攻め支度も用意せず、

盾ばかりをつき並べて攻め寄せてくるであろう。
その時、城中静まり返って鉄砲も撃たず、

敵を近々と矢頃まで引きつけた上で、

打ち損ぜぬよう弓鉄砲を一斉に射撃させ、

また弓鉄砲を持たぬ者は石を多く集めておいて、

これをひたすら投げ打つのだ。

私は大手の矢倉に上がり、敵が弓鉄砲に打たれ、

恐れ浮足立った時分を見て太鼓を打つ。
その時味方の諸卒が城門を開いて突き出れば、

その頃は寄せ手が大軍であったとしても、

鉄砲に当たり石に打たれ手負い多く戦うものも少なくなっているだろうから、

ここで鬨の声を上げ競い攻めかかれば、

敵の勇気も一時に挫けて、必ず大崩れするだろう。」

そうして予め軍法を定め敵が攻めくるのを待っていた。

襲来した敵軍は、案の定城の形状を見て、

「この程度の小城、いとも容易く、即座に攻め落とす事が出来る。
であれば仕寄も作る必要はない。ただ直攻めに攻め落とそう。」

と、盾を一面につき並べ、
柵際まで攻め寄せ、柵を破り堀下へと侵入した。

城中の者達は、かねて議定していたことなので、

鳴りを静めて音も出さず、敵が既に石垣に乗らんとした時、
思ったとおりに引きつけたと、鉄砲を一度に、雨が降るように撃ちかけた。
寄せ手の兵はこの城を侮って、

ただ一挙に攻め落とそうと勇んで進んでいたため、

石に当たり鉄砲に撃たれ多く死傷者が出たが、

それも顧みず死骸を踏み越え我先にと城内に乗り込もうとしたが、
城中の防戦激しくこれを破ることができず、

やがて死傷者の増加に浮足立ち始めた。

ここで孝高、

「時分良きぞ!」

と太鼓を打ち鳴らすと、かねて決めていた通り、城中の兵城戸を開け、
鬨の声を上げて三百余人一度にどっと突いて出た。
 

寄せての内、城下に近づいていた先鋒の者達は、

鉄砲で多数が撃ち殺され、残った者も多くは負傷していたため、
これを防ぎ戦う力なく、即時に敗退した。
その後ろの敵は先陣の崩れに押し立てられ、一支も出来ず大崩れとなり敗退した。
阿閉城勢はこの機に乗じて強く勇み、

追い打ちしたため多くの敵を討ち取った。

このことが姫路に聞こえると、羽柴秀吉は大いに喜び、

孝高に感状を与え、また秀吉より信長へも注進された。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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