永禄4年(1561)の頃、
毛利元就は日本中を彼方此方に行脚する僧を御陣所に召し寄せ、
御斎(食事)など与え、その後諸方の様子などを尋ねた。
その話の中で、元就はこの様なことを語った。
「先年、尼子方の、石見・山吹城を攻めた時、
その守将である本城越中守(常光)の働きを見た所、
聞き及んでいたよりもはるかに、武辺の達人であると知った。
彼は中国西国の間においては類なき武士である。
あの時私は、彼を攻め潰そうと思っていたが、
あのような者を攻め潰すのは武士の本意では無いと考え、
山吹から引き下がったのだ。」
これを聞かされた僧は、
それから間もなく本城越中守の所に行き、この話をした。
本城は、
「名将からのお褒めの言葉であり、
眼前に対峙している敵ではあるが、誠に本懐に思う。」
と大いに喜んだ。
勿論元就の策略である。
この話の伝わったことを確認した元就は、
吉川元春に本城越中守への寝返り工作を行うことを命ずる。
元春は山口の宝泉寺を通じて、
本城家家老・服部若狭守、椿井戸三郎兵衛に対し、
毛利方に味方するなら石見銀山及び出雲原手郡を加増するとの、
毛利元就・隆元親子の言葉を伝えた。
そして、
『元就公は越中守様を、敵とは申しながら武勇他に優れた人物であり、
語り合いたいものだと申されていました。』
との、元就の思いも語った。
本城はこれを聞き、
「御意の趣うけたまわり、忝く存じ奉ります。」
と、毛利方に与することを誓い、
嫡男・本城太郎左衛門を月山富田城から落とさせ、
元就のもとに人質に出した。
これらが整ったのが永禄5年の夏ごろだとされる。
この本城寝返りにより、毛利元就は遂に全面的な尼子攻めにとりかかる。
尼子氏を滅亡させた、第二次月山富田城の戦いが始まるのである。
ちなみに寝返った本城常光はそれから間もなく、
毛利元就から、
『武威に誇り高慢つかまつり、
人を人とも存ぜず、忠賞に行われ候衆中の領地押し込み、
入部の者共を追い立て、狼藉大方ならず候に付き、
往々御弓矢の妨げに罷り無るべし。』
として、一族郎党共に、吉川元春の軍により誅殺された。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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