大友義鎮(宗麟)は、羨ましかった。
お隣の大内さんが、である。
朝廷や将軍との近しい関係から、官位や官職を次々と得、
西日本王とも言うべき権威と権力を得ていたからだ。
聞くところによると、大内さんは莫大な献金によりその地位を得ていると言う。
ならば、俺もやってみよう。
義鎮は天文二十三年(1554)、将軍足利義輝に莫大な献金をした。
効果はてきめんであった。
義鎮は、その褒美として肥後守護織に任じられた。
大友氏は肥後支配の正統性を手に入れた。
『大友義鎮の権威が上がった。国衆たちの義鎮を見る目が変わった。
大友義鎮の支配力のレベルが上がった。』
「これだ!」
権威は金で買えるのだ。
もっと!もっと支配のための権威を!
義鎮は京にプレゼント攻勢をかけた。
金銭は勿論の事、記録に残るだけでも、
緞子、白糸、黄金、絵画、手火矢、南蛮鉄砲、石火矢、種子島筒、
えとせえとせ。
とにかく身の回りにあるもので珍しい物、価値のありそうな物は、
すべてといっていいほど送った。
結果
天文二十三年(1554)、肥後守護織
永禄二年(1559)、豊前、筑前、筑後守護織、九州探題織、大内家家督
永禄三年(1560)、周防、長門守護織、左衛門督叙任、桐の紋を授与
なんと義鎮は瞬く間に、制度的、名目的には島津守護職薩隅日を除いた九州全土、
そして旧大内領すべての支配権をその手にした。
彼は、かつて羨んだ大内をすら越える、西日本王の地位に、今まさに立ったのだ。
そう、あくまで名目的に。
島津「京から貰った権威?」
龍造寺「そんなもの」
毛利「知るか!」
『権威の効かない連中が現れた。大友義鎮は動揺している。』
彼が大金をかけて得た権威は、彼の権力を保障してはくれなかった。
それどころか、その名目上の権限を守るため、
泥沼のような争いを強いられる事になったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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