骨喰藤四郎顛末☆ | げむおた街道をゆく

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大友家初代が源頼朝より拝領したという、

太刀、吉光作・骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)と言えば、
世に隠れなき名刀、大友家の重宝として有名であった。

ところでこの「骨喰」という名であるが、

これはこの刀を持って、戯れに人に斬る真似をしただけで、
即座に実際に相手の骨が砕けた。

この事により名付けられたのだそうだ。


建武の頃、足利尊氏の九州下向の際、大友氏より尊氏に、

深く忠誠を尽くすことの証として進上された。
 

尊氏はこの刀を得てから運を盛り返し、ついに天下を得た。
そのためこれを将軍家代々の重宝としたのだが、

将軍義輝の時、その近習多賀豊後守に与えられた。
 

ところが永禄8年、三好三人衆・松永久秀による将軍弑逆、

いわゆる永禄の変が起こる。
この時、多賀豊後守も、将軍方としてこの刀を持って戦い、討ち死にした。

その後、この刀は松永久秀が得、それから天下の権柄を執るほどになった。
彼はこれを秘蔵していたのだが、ある時、大友宗麟がその事を知り、

それはもともと大友家の重宝である故、自分に譲って欲しいと、

家臣の毛利(森)兵部少輔を遣わし、金銀およそ三千両、

その他多くの財宝を松永に献じた上で要求した。

松永久秀はこれを非常に惜しいと思ったが、

その頃、大友宗麟は九州6ヶ国を支配する大身であったため、
これを断り難く、ついに骨喰の太刀を渡した。

さて、この毛利兵部少輔が豊後に帰る途中、播磨灘でのこと。
 

夜に入って船が1,2里ほども進んだ時、

にわかに海上に、幾千万とも知れぬほどの明かりのようなものが出現し、

船に向かって近づいてきた。

毛利兵部少輔はこれを見て、

「さては松永、この太刀を渡したのが惜しくなって、

軍勢を率いて取り返しに来たか!」
と考え船の者たちにその旨を話し、

「命のあるかぎり、この刀を放すことはしないぞ!」

と言葉荒く怒鳴った。

と、その瞬間、船を取り囲んでいた光は忽ちに消えてしまった。
 

毛利、これを見て、

「さては竜宮よりこの太刀を望んできたか。

優れた銘作の太刀は、竜王がそれを望むこともかつてはあった伝え聞く。

しかし現実にこんなことがあるとは、

この刀を運びながら、思いもよらなかった。」
 

そして更に輸送に気をつけ、ついに豊後まで無事に運びきった。
建武から永禄8年まで229年ぶりの、大友家への帰還であった。

ところがこの骨喰藤四郎、天正17年に大友家より豊臣秀吉に献上された。
この時、多くの者が、『これで大友家は衰微するのではないか。』

と囁いたのだという。


ちなみにこの骨喰藤四郎、大阪夏の陣の後、大阪城堀の中より発見された。
その刀身には傷ひとつ付いていなかったという。


大友家の重宝、骨喰藤四郎についての逸話である。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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