野田福島の時は、美濃国の土岐殿の譜代筋である稲葉一鉄という侍を頼んで、
信長の普代衆もこの伊予守の命令に従えと、
信長自筆の手紙を稲葉に与えた。
尾州の譜代衆は、以前に滅ぼした美濃国の者の采配に従うことは、
口惜しいと立腹するのももっとものことであった。
さて敵は大坂堺衆に、阿波・播磨からも加勢があった。
しかも敵は大将のいない寄合衆なので、
普通とは異なっているという意見が出ていて、
いつ仕掛けてくるかわからなかった。
信長の旗本は木幡山にいるので、いずれ大事になると用心して、
稲葉伊予守は陣の周りに堀をほり、柵をつくり、
筵や薦を張って中の見えぬよう下知を出し、
篝火を焚いてはならぬ、
夜回りの声を立ててはならぬと命令すれば、
信長譜代の大身衆は、陣で篝火をたかず、夜回りの声を立てず、
そのうえ敵の大将は一向宗の坊主であるのに、
柵を作り、筵を張って用心するとはなんということだと、
稲葉伊予を大小上下ともに悪口を言っていた。
さて信長と比叡山は、敵となり、
また越前から軍勢が引き出てくるとの注進を聞いて、
坂本での朝倉義景との対陣に懲りたのか、
野田福島の先鋒陣に飛脚を寄越しただけで、
信長は早々に岐阜ヘ立ち退いた。
この知らせを聞いて、信長の先鋒衆が夜中に陣を引いた時、
稲葉伊予守がさきに命じたことが良い判断であったので、
悪口を言っていたものはそれぞれ、稲葉伊予守を褒めた。
この時も、信長は若いが、良き大将であるので、
人の目利きが優れていると、信玄公は家中でも褒めなさった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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