織田信長公が、阿弥陀寺と由緒深い理由を詳しく説明すると、
信長公のご生存の頃、当寺の開山である、清玉上人を、
年来御別懇にお目にかけられた事、世に隠れもない事であった。
そんな所に、明智日向守光秀の謀反によって、
天正10年(1582)6月2日の払暁、信長公が旅館にされた、
本能寺に兵が押し寄せ合戦に及んだ。
清玉上人は、この事を聞きつけると大いに驚かれ、
直轄の坊主、並びに搭頭の僧徒20人ばかりを召しつれ、
ともかくも本能寺へと駆けつけた。
しかし表門、合壁は軍勢で中々近寄ることも出来ないように見えた。
そのため、清玉上人は、京の裏道、堀構の案内を良く存じられており、
裏道に回り、本能寺の裏から、
垣を破って寺内にようやく駆けつけられた時には、
もはや本能寺に火が掛かり、
信長公は切腹されたと聞かされた。
上人は力を落として、ふと片脇を見ると、
墓の後ろの藪の中に、10人ばかりが集まって、
樹の枝などを折りくべ、火を焚いていた。
清玉上人は、不思議に思いそこに近づいてみると、
彼らは皆、上人も良く知った武士たちであった。
「これはいかに?信長公は如何なされましたか!?」
上人が尋ねると、
「もはや御切腹遊ばされ、御遺言に、
『死骸を敵に取られるな。首を敵方に渡すな。』
と仰せ置かれました、
しかし御死骸を抱いて立ち退こうにも、四方皆敵の中にあります。
差当り致すべき思案もなく、只今こうやって御死骸を火葬にし、
灰と成して敵に隠し、私達はその後切腹して、
信長公のお供を致そうと考え、御弔いをしているのです。」
上人はこれを聞くと、
「さては幸いのことです。私の事は内々に、皆様御存知の通り、
信長公より旧来御懇意の上意を頂き、有難く存じておりました。
そのため、何か御用もあらんかと早々にここまで駆けつけた所、
もはや御生害なされておられ、是非に及ばぬ事であります。
しかし火葬は出家の役目です、ここは愚僧にお任せ下さい。
僧徒も数多召し連れてきています。
御死骸を火葬にいたし、御骨を我が寺に持ち帰り奉って御墓を築き、
御葬礼、御法事等も、愚僧の力の限りに相働きましょう。
ですので、その事についてはお気遣いなく、此処をこの坊主に任せて、
敵も表に見えますので、皆様一働き、御働きあって、
速やかに討ち死にされ信長公のお供をなさって下さい。」
これに武士たちは皆々喜んで、
「信長公とかねてから御懇情の事でありましたので、
その思し召しは至極に存じます。
そういう事でしたら、仰せに従い、貴僧に此処を頼り置き、
我々はここから出撃し、猶入ってくる敵を防いで、
心静かに切腹し信長公のお供をしようと思います。
そのため、此処を頼み入ります。」
そう言うと上人たちを残し皆そこから立退き表に出撃した。
そこで上人は火葬を受け取り、
暫時これを煙と成し、御骨を取り集め衣に包み、
本能寺の僧衆が立ち退く風情をして阿弥陀寺に帰り、
御骨を先ず、深く隠しおき、暫く日数も過ぎて搭頭の僧徒ばかりにて、
密かに御葬礼をとり行い、御墓を築き、そこに御骨を納めた。
この墓所は阿弥陀寺にあり、
今に至るまで御命日には懈怠無く相勤め奉っている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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