永禄の末、信長公が天下の権柄を執ることとなり、
威を海内に振るうこととなったため、
大友宗麟公は、豊後から御祝いの使者を送った。
そののち信長公から鬼月毛という名馬を豊後に遣わされることとなった。
この馬は尋常の馬より遥かに長い顔で八、九寸ほどあり、
骨がごつごつし筋が太かった。
眼は朱を差したようで、いつも怒り、常にいななき、歯噛みし、
人にも馬にも食らいつくようだったので、鬼月毛と名付けられた。
宗麟公はこの馬を誰に乗らせようかと考えたところ、
小笠原刑部大夫晴宗という、もともと義輝公方の侍があり、
その子息で大学兵衛(大友興廃記によれば諱は晴定)というものが、
荒馬乗りの達人であった。
小笠原大学兵衛ではなくては乗りこなせられないだろうということで、
明朝に乗ることになった。
鬼月毛は金覆輪の鞍、紅の大房に真紅の縄を八筋つけ、
舎人八人が持ち、そのほかに綱を二本つけて計十人で馬場に引いてこさせた。
鬼月毛は轡を噛み切っていなないてやってきた。
宗麟公はじめ、諸侍そのほか何人もが見物にやってきて見守る中、
大学兵衛尉は白い小袖にかちんの上下、金ののし付きにした大小を差して、
六尺あまりの巨体でゆらりと打ち乗った。
手綱、鞍、鎧などを例式のごとくにして、
序盤から早駆けさせ、自在に操った。
のちには曲乗りの秘術をつくし、梯子を踏ませたり、
碁盤の上に四つの蹄を縮めて立たせたり、
あるいは鞭を塀の向こう側に投げ捨て、その五丈あまりの塀を越えさせ、
鞭の上をまっすぐにかけさせたりした。
宗麟公は御覧になり感じ入り、父親の晴宗方へさまざまな褒美を与えた。
鬼月毛は大学兵衛が乗りこなしたため、
より速く駆けるようになり九州一の名馬となった。
日に日に見物人は多くなり、七町余の馬場を、
人が四回か五回息をつけばたやすく往復するような俊足であった。
その後、馬術の上手なものが何人も挑戦したが、
十人に一人か二人は腰を下ろすものの、
馬が足を踏み出す前に諦めてしまい、
そのほかの八、九人は馬を見ただけで恐れて乗らなかった。
こうして大学兵衛は自由自在の御者として名誉に預かった。
厩舎別当の雄城無難は、
「常の馬であれば我らとそう変わらないように見えるが、
この鬼月毛ばかりは上手だけではなく、
力乗りでなければ乗りこなせない。
大学兵衛の力は馬よりもまさり、
しかも上手のためこのように乗りこなせるのだろう。」
と申したそうである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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