馬場美濃(信春)が申すには、
「尾州犬山の城主・津田下野守(織田信清)は信長の姉婿ですが、
信長に負けて追い出され諸国を浪々致し、
3年以前より当国へ参って、
御舎弟の一条右衛門太夫殿(信龍)の咄衆となり、
“犬山哲斎”と申しております。
この人の物語りによれば、
信長の武辺形儀は父の弾正忠(織田信秀)を少しも真似ず、
舅の斎藤山城守(道三)の弓矢形儀を仕っております。
『(信長は)そそくさとしている様で、殊の外締まって働く』
と、犬山哲斎は沙汰致しました。」
と申し上げた。
信玄公が、仰せられたことには、
「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることならずして、
小身故に故今川義元の旗下となって駿府へ出仕致した。
斎藤山城は殊に私めを頼っておられた。
土岐殿浪々の後に美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には、
越前から朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどなれば、
斎藤の弓矢と弾正忠とはかけ離れた弓矢の位、山城が上である。
信長が斎藤山城の弓矢の家風を取るところと致すは、
もっともなり。
しかも山城の孫・龍興を信長は押し散らして美濃侍を数多抱えたわけで、
父の弾正の代には小家中であった故、
侍はどのようにしても大家中の家風を真似るものであるから、
自然と信長衆の大方のことは、
斎藤山城のように致すものであろう。
それはあえて真似るわけでなくとも、
浄土寺へ行けば自然と、
『念仏申したい』
との心になるのと同じことである。」
と仰せになられた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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