文禄二年(1593)、
豊後では、朝鮮役への負担に耐えかね農民の逃散が続出し、田畠は荒廃した。
大陸への出兵基地である九州での混乱をほおって置くことは出来ない。
これへの対処を迫られた秀吉は、こんな命令を出した。
「全国の陰陽師を逮捕し、豊後につれてきて荒廃した農村に送り、
定住させ農業をさせるのだ!」
非定住の遊民である民間の陰陽師は、
支配者である秀吉にとって気に入る相手ではなかった。
自分自身が、敵を霍乱やスパイするために陰陽師たちを使った過去があるだけに、
なおさらである。
遊民問題と農村の荒廃問題、これらを一度に解決する、
一挙両得の政策であった。
もちろん失敗する。
秀吉の強大な権力により、豊後には全国から大量の陰陽師は集められた。
が、いきなり見ず知らずの土地で農業をやれといわれても、
出来るわけが無いのだ。技術も経験もないのである。
そうこうしているうちに農民の逃散は、
九州全域、そして全国へと拡大した。
慌てた秀吉は今度は文禄六年(1597)、
農民が逃散した田畠はすべて豊臣政権が没収する、
荒田没収令と言う強硬策を打ち出したが、
これは、自領の統治に介入されると諸侯の猛反対に会い、結局撤回された。
秀吉の指導力の限界が、露呈した形となった。
豊後に集められた陰陽師達は結局、またどこかへと消えて行ったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく

ごきげんよう!