安芸の毛利家の居城は、吉田の郡山といい、毛利陸奥守元就以来の家城であった。
これに対し、豊臣秀吉は分別に、
「毛利の居城は自然に惣構良く、敵の馬寄には悪く、
その上猛勢が入り込んでも無事に引き上げることは出来ないと聞いている。
この秀吉一代、輝元一代は別状ないだろう。
しかし末代の天下持ちはどう考えるだろうか?
秀吉がこの事に気が付かなかったかのように、
分別の厚い将来の天下持ちは思うのではないだろうか。
であるので、毛利の居城を変えさせるべきである。」
そう考え、当時まだ存命であった蜂須賀彦右衛門に内々に命じ、
蜂須賀は毛利輝元、小早川隆景にこのように言った。
「今どき、山城などというのは登り降りにも苦労する代物です。
その上毛利家の御居城は山中にありますから、
輝元殿には不似合いと言うべきでしょう。
幸い、厳島に向かい合った海上に近い場所に広い土地があり、
そこに平城を取立てられれば、
京都への往復も、城下から直に船を召して移動できます。
ここを、御居城とされるべきでしょう。」
これを聞いた輝元、隆景も、城替えの普請苦しからずと思い、
「ご指図の場所に、直ぐに城を取り立てましょう。」
と、同意した。
蜂須賀彦右衛門は間もなく病死し、その後を黒田官兵衛が仰せ付けられ引き継いだ。
官兵衛は輝元、隆景と、
「では、ここに城を取り立てましょう。」
と議定した。
官兵衛はこれを秀吉に報告すると、
「では早々にこの地に城を建設するのだ。」
と、秀吉は官兵衛を、この新城建設の横目付として遣わし、
広島の地を取立て、官兵衛がその縄張りをした。
秀吉からは、
「辺りに川などあれば、それが城下に入るように見合って縄張りするように。」
と、念入りに言い含めた。
そして関ヶ原の時。
徳川家康は、もし毛利領に軍を向けた場合、
吉田城であれば手間取ることになるだろうが、
今の広島城なら苦労なく乗り崩す事ができる。
であるので、家康の有利な点と成ったと聞こえている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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