天正15年(1587)3月、
九州征伐のため筑前に入った豊臣秀吉は、
秋月種実が焼亡した益富城の跡地に入った。
ここで秀吉は、敵の気力を削ぐため、
暮れに及ぶと嘉摩穂浪(現福岡県嘉麻市)の村々に、
篝火を多く焚かせた。
この命令は南は桑野より、北は飯塚のあたりまで及んだ。
秋月家の者達が古所山の頂上から東のほうを見渡すと、
秀吉の軍勢は周囲に充満し、
諸軍が陣に燃やす火は晴れた日の空の星のようで、
野も山も村里も、皆軍兵と化したような夥しさであった。
夜が明けて古所山の山上より益富城を見ると、
なんと、一夜の間に見慣れぬ白壁に、
腰板を打った城が出現しているではないか!
見る者驚き、あたかも神変が起こったかのような思いをした。
しかしこれは、敵の目を驚かせ、勇気を挫くための秀吉の策略であった。
彼は播磨杉原の紙を使って夜中に城の壁として張らせ、
民家の戸板を集めて墨を塗り、腰板にさせたのだ。
これに驚愕した秋月種実は意気消沈し、
戦意喪失して秀吉に降伏したという。
豊臣秀吉、九州征伐での一夜城についての逸話である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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