内蔵助を攻める軍勢を出すべし☆ | げむおた街道をゆく

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「越中国の佐々内蔵助(成政)は、秀吉が四国九州へと軍勢を出すならば、

定めて隙きが出来たとして、油断を突こうとするだろう。

であるので、内蔵助を攻める軍勢を出すべし。」

と御議定した所に、
蜂須賀彦右衛門(正勝)が申し上げた。

「内蔵助についてですが、彼は供の者六人を召し連れ、

国を急に立って浜松に参ったと承っております。
供は佐々与左衛門、いたわ勘右衛門、松木内匠、その他計六人、

そのように承っています。
御分別のため申し上げます。」

これに対し、秀吉公の御意には、
「家康卿が律儀である所に目をつけ、内蔵助はすぐに合戦という状況で無いために、

直談をすべしと思ったのだろう。

しかし今更、家康卿に心置きをしようとするなど、口実を作って却って、
毛を吹いて疵を求むという事と同じだ。

事が見えない先に聞き出すような沙汰は、必ず上手く行かないだろう。

家康卿に表裏はない(家康卿表裏有間敷なり)。

丈夫である家康を東の押さえに頼り置く事ができれば、
東国の気遣いは無くなる。であれば越中に馬を出そう。」
との御議定であった。

家康卿へは越中に、

『御馬出候、加勢少可給者なり。』

と仰せ遣わした所、本多豊後に都合三千の兵、
そのうち鉄砲三百挺にて、家康卿よりの御加勢として素早く上洛に及んだ。

これによって上様(秀吉)は大阪を、酉年(天正十三年)七月二十七日に出陣された。
 

この時の御分別には、

「内蔵助とはこの間まで、肩を並べる傍輩であったのだから、

定めて私に対して疑いが深いだろう。

例えこの秀吉に降参したとしても、悪我を張るであろう。
織田信雄は信長公の御実子であるから、信雄を私の旗本と定めよう。

内蔵助は堅物であるから、
信雄に対して降参するだろう。」

そのように思し召し、軍勢の路地すがら信雄に対面した時、

自身の御旗本のように執り扱ったのは、
その様子を越中に響かせるためであったと聞こえた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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