天正12年(1584)5月、
東海では、小牧長久手の戦線が、膠着した頃の事である。
京において、佐久間道徳による、秀吉への謀反計画が発覚、
道徳は逃走し、
その弟、御兵は捕らえられ殺される、と言う事件があった。
秀吉はこの事件に非常に神経質になり、
道徳らがすんでいた町から人質を取ろうとした。
が、町民達はこれを拒絶、難航した協議の結果、
前田玄以の調停で、どうにか人質提出で合意に至った。
秀吉は、この難航を、
自分の面目を失わせたものと、激しく怒った。
5月17日、秀吉は淀の城番、小野木重次に命を下す。
『道徳らがすんでいた二つの町の者は、妻子まで含めて全員捕らえよ!
そして京の町に籠を並べ、その中に押し込めるのだ。
籠に入れた者達は、7日ほどもそのまま、何の食べ物も与えずにおけ!」
逆らうだけでなく、自分に少しでも抵抗すればどうなるか、
その見せしめである。
この命令に町の者達は恐慌をきたし、一斉に逐電をしたが、
逃げ遅れた者達など数十名が捕らえられ、2ヶ月近く監禁された。
さらに秀吉は、逃亡者達を捕らえるため、
京の七口に厳重な検問所を設け、
公家などにかくまわれた者たちをも焙り出すため、
その捕縛を、朝廷にまで申し入れた。
秀吉が、自分の面目を失わせた者への報復には、
どれだけ強圧かつ執念深いか、その一例である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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