天正14年(1586)、自分の妹・朝日姫を差し出したのみならず、
人質としてその母・大政所を送ってきた豊臣秀吉に対し、
徳川家康はついに上洛を決意した。
しかしその上洛に関して、徳川家中では、
「秀吉の罠である。」「上洛すれば謀殺される!」
と言う懸念は未だ多かった。
この懸念は家康も少なからず持っていた。
そしてもし自分が京で謀殺された場合、
人質である朝日姫と大政所をどうするかと言う事について、
井伊直政と大久保忠世に指示をしておいた。
それに曰く、
「もし、わしが都で腹を切ったと聞いたなら、大政所に関しては殺して良い。
だが朝日姫は殺してはならぬ。
朝日姫を殺せば、『家康は女房を殺して腹を切った』などと言われるだろう。
これは世間の聞こえもよくないし、のちの世まで噂されるであろう。
一方大政所は、京でのわしの身の安全を保証するための人質なのだから、
わしの身に何かあったときに殺すことは全く問題はない。
しかし朝日姫に関しては、決して手を出してはならぬ。」
どちらも秀吉からの、家康懐柔のための同じような人質だと思われるのだが、
それぞれの人質とされた「理由」によって、いざという時明確に処遇が違ってくる、
戦国のシビアな人質処置の一端が見えるお話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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