川窪信実・信俊親子☆ | げむおた街道をゆく

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甲斐国武田家に、川窪信実という武士がいた。
武田信玄の弟に当たる人物で、昇仙峡の更に奥、

川窪の地を治めて領地を名字とした。
 

後に甲斐と武蔵の国境地帯を領していた兄・松尾信是が早世すると、

その遺領を引き継いだと言い、山の多い甲斐国の中でも、

とりわけ山奥に領地を持っていたようである。

ある時、この川窪信実の元に篠瀬某という男が転がり込んでくる。
実はこの男は徳川家の家臣であり、家康の主命に逆らったとして徳川家を出奔、

対立していた武田家に逃げ込んだのである。

後に家康に許され、徳川家に帰参する事になった篠瀬に対し、

信実は鷹を二羽与え、家康への献上品とさせた。
この心遣いに家康は大いに感じ入り、信実を褒め称えたと言う。


時は流れて本能寺の変の後、家康が甲斐国に侵攻する。
家康は篠瀬を呼び出し、
「川窪信実殿が、先年の長篠合戦で討死にされた事は知っている。

大変残念に思うが、信実殿は御子息をお持ちではなかったか?

もし居られる様なら是非、召抱えたいのだが……。」
 

篠瀬の仲介によって召し出された信実の息子、川窪信俊は家康に仕え、

信州平定、小牧長久手、小田原仕置きと抜群の戦功を立て、

伏見城の番頭にまで抜擢されている。

父・信実を亡くした時、まだ年少だった信俊は、

伯父・信玄の未亡人に養われたと伝えられ、

武蔵国金窪(埼玉県上里町)に転封された際に養母を伴って国入りしたと言う。

その地で死した養母は、金窪の陽雲寺に葬られ、

信玄との夫婦画像とされる肖像画も現在まで伝わっている。
 

養母は秀姫と言う名で、

陽雲寺では正室・三条夫人の事だと伝承されているらしいが、

死亡年代等、史実と食い違う箇所が非常に多く、

「秀姫は信玄の側室の一人」
とか、「秀姫は架空の人物」とか、

様々な説が取りざたされているらしい。


信玄自身が目立ち過ぎてるせいで、

あまり語られる事のない、弟さん&甥っ子のいい話。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ どうする家康・異聞、目次

 

 

 

 

 

ごきげんよう!