永禄七年(1564)、徳川家康は、ついに今川と断交する。
これに怒った今川氏真は、二万余という大軍を率い、
徳川家譜代・本多百助の籠もる、東三河・一ノ宮城を包囲した。
岡崎城の家康は、すぐに駆けつけようとしたが、家臣たちの猛反対を受ける。
「敵は大軍、それに対して我が方は三千しかおりません。
それに酷な話ですが、一ノ宮城は、
今の徳川家にとって重要な城とは申せません。
本多のかたがたも、百助を見捨てる事は納得しておられます。
どうかここは、涙をのんで諦めて下さい!」
しかし家康は言った。
「一ノ宮城を落とし、あの城に百助を入れたのはわしだ。
そうしておいて今更、敵が大軍だからと言う理由で見捨てるような、そんな道理があるか?
主君が危機の時は家来が助け、家来が危機になれば主君が助ける。
これが武門の習いではないか。
百助を救いに行く事でこの家康が斃れるなら、むしろ本望である。」
これを聞いて、岡崎衆は、心を一つにした。
一ノ宮城を囲む今川の大軍に、錐のような突撃をかけ、
その壁を突き破り一ノ宮城にたどり着いた。
そうして百助ら籠城衆を回収すると、
城を捨て一目散に岡崎城へと帰って行った。
徳川家康、この時22歳。
家康は、その後の人生の中で、家臣を見殺しにせざるを得なくなることも、
また、あえて見捨てる事もする。
だが、家臣たちは、こういった家康の姿を知っていたからこそ、
彼に付いて行ったのだろう。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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