滝川左近(一益)は、関の城、亀山の城、長島の3ヶ所を所領する大名であった。
羽柴秀吉が柴田勝家を攻めた時(賤ヶ岳合戦)、
一益は勝家の後巻をしようとしたのだが、勝家敗れるの報を聞くと、
秀吉に降参をした。
後、秀吉と織田信雄との関係が悪化し合戦となった時(小牧長久手合戦)、
秀吉に対して抜群の忠節を成そうと思い、
この頃、蟹江城は織田信勝・徳川家康方の城であったが、この城主と内通して心変わりをさせ、一益はこれに入城しようとした。
伊勢より船に乗って向かった所、蟹江城の周辺ではにわかに潮が引いて、
船が着岸することが出来なくなってしまった。
この頃一益は病中であった事もあり、肩輿に乗ってようやく城に入り、
従う者達も多くは入城できず、船に乗ったまま海に漂っている状態であった。
ここに、徳川家康が急襲を仕掛け皆殺しにした。
一益の身はあつかいと成り、信雄・家康の味方となって、
秀吉のことを謀ると約束し、生命は助かったが、自身もあまりの事と思ったのか、
妙心寺に入って落髪、出家した。
その後一益は、越前において死んだそうである。
信長の時代、天下の政道は4人の手にあった。
すなわち柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、である。
滝川一益の武勇は無双の名があって、度々関八州を引き受けて合戦した。
関八州の者は、滝川の名を聞いただけで
恐れたほどであったのだが、末に至って散々の体となったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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