天正十年六月十九日、滝川一益は本能寺の変を受けての、
北条氏との神流川の戦いに敗北する。
この日、晩景になると敵もそれほど追い打ちをかける姿勢は見せず、
一益は敗卒を駆けあつめると、
国衆たちに、もう一度力を合わせ、
生死の有無を決する戦いをすべきかどうかという伝令を出した。
しかし皆は、
「人馬ともに疲れ果て、日も既に暮れている。明日を待って一戦交えるべし。」
との返答であった。
一益もこの上は力及ばず、またこのような疲れ武者で目に余る大軍に向かっても、
戦果を得ることは出来ないと判断し、国衆たちに触れを出し、
速やかに陣払いをすると神流川を渡り、
ひとまず倉賀野淡路守秀景の城へ入ってしばらく休息し、それから厩橋城へと戻った。
まさに負け戦であった。
翌日、一益は武蔵野で討死した味方の士卒の供養を城下の寺に頼み、
金子百両を渡して回向した。
その後、上州衆を集めると、
「この度の戦いで粉骨して働いた無二の志は、生きている限り忘れない。」
と感謝を伝え、それまで預かっていた人質を悉く返すことこそ真の弓矢の道であると、
彼等に返した。
そして、
「これよりすぐに上洛して、小田原の北条とは和睦をなし、
この上の迷惑を、皆にはかけぬつもりである。」
と今後についても話し、繰り返して感謝を伝えた。
それから、今日が今生の別れとなるだろうからと酒宴を催した。
二十夜の更待月(ふけまち)がくまなく城内の庭を照らし、
涼しい風もようやく立って、生き返ったような夜であった。
一益は鼓を取って「つわものの交わり頼ある中の…」り今様を謡うと、
倉賀野淡路守が「名残いまはと啼く鳥の…」と和した。
互いに抔を交わして別れを惜しんだが、夏の夜は短く、既に明け始めると、
滝川一益父子は、「さらば」と厩橋を発った。
小幡、倉賀野をはじめ上州衆は、返された人質までもが道々に警護に立って彼等を見送った。
明けて二十一日、松井田城に着くと、津田小平次、稲田久藏の兵一千余騎に守られ、
碓氷峠を越え信州小諸に付いた、
そこで一日逗留し、諏訪街道より木曽路を経て、七月一日、伊勢国の領分、
唐櫃島に到着した。
およそ今度の滝川一益の命運ほど、変転の激しいものはなかった。
人が予測できるような事では無かったのに、
一益がよくその中を切り抜け生き残ったのは、
彼の処世の上手さも在ったのであろうが、
彼自身の誠意が神に通じたのであろうと、人々は噂した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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