関東衆が神流川の戦いおいて、滝川一益に対しあのように粉骨を尽くしたのは、
滝川の智より出たものである。
信長公御生害(本能寺の変)の事についての密書が到着した時、
滝川の家老達は、「先ず隠密し給え。」と、
その情報を隠すことを勧めた。
これに対して一益は、
「悪事千里を走る習いなのだから、隠せば却って顕れるだろう。
信長公より私が関東管領に仰せ付けられ、
手柄次第に切り取るべしとの御朱印を頂戴した。
士は義を立てる者であるのだから、弔い合戦のために上る私に対しては、
加勢する事こそ本意であり、背く士は有るまじ。
しかし、もし隠して上ろうとすれば、
滝川は主君から離れた東国を持ちこたえることが出来ず逃げ上がるのだ、として、
追いかけ討ち留めようと申し合いする事必定である。
顕して申し聞かせれば、義を守る士は、却って見届けるだろう。
それでも、もし敵対するのであれば、信長公の追腹と思えば本望である。」
と言うと関東衆を呼び集め、信長御生害の様子を申し聞かせ、
「私を上らせ給うのも、上らせなくするのも、各々の心次第である。」
と申した事で、関東衆はこれに感じて、武州の一戦(神流川の戦い)にも、
滝川の先陣をして粉骨した。
滝川は神流川の戦いの後、倉賀野より箕輪城に入り一宿し、
そこでの様子も良かったため、関東衆はいよいよ心を変ぜず、
それより松枝に移り、碓氷峠を越えて追分に出て、信州小室へ懸かり、
諏訪へ行き、中山道を経て、七月朔日、勢州長島の城に到着した。
この時、関東信州の、その通路の士大将衆は、
何れも一益に人質を出して見届けた、という。
関東律儀の風にて、斯くの如し。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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